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液晶に棲む狐  作者: 都桜ゆう


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第5章:日常のひび割れ(前編)

 水という死の宣告を受けてから、志保の日常は液体という存在そのものへの、病的なまでの恐怖に塗りつぶされていた。

 大学の講義をすべて欠席し、アパートの自室に鍵をかけて閉じこもってから三日が過ぎた。


 彼女は血走った眼で、部屋中の水道の元栓をこれ以上回らないほどきつく締め、唯一の生命線であるミネラルウォーターの備蓄すら、ボトルの中で中身が揺れるチャプという音に耐えられず、クローゼットの奥へと放り出した。だが、恐怖は物理的な遮断など意にも介さず、壁の隙間から染み出す湿気のように忍び寄ってくる。

 深夜、静まり返った室内の静寂を切り裂いて、彼女はその音を聞いた。


 ――ピチャ。……ピチャ。


 浴室の方から、冷たい水滴がタイルを叩く粘りつくような音がする。元栓は締めたはずだ。配管に水は残っていないはずだ。

 志保は耳がちぎれるほど強く塞ぎ、ベッドの上で胎児のように丸まった。だが、音は徐々にその湿り気を増し、やがて濡れた肉塊が床を這いずる音へと変貌していく。


(……シ……ホ、……シ……ホ……)


 それは空耳などではなかった。古びた水道管が激しく軋むような、湿った低音のノイズが、明確に自分の名前を呼んでいる。


 耐えかねてバスルームのドアを細く開けた瞬間、志保の口から音にならない悲鳴が漏れた。蛇口からは一滴の水も出ていない。それなのに、洗い場の床一面を、光を一切反射しない泥のような真っ黒な水が、音もなく覆い尽くしていたのだ。


「……うそ、なんで……」


 その水面から、死後数週間を経過したかのように青白くふやけた無数の指が、芽吹く植物のように突き出した。指先は意志を持っているかのように蠢き、逃げ場を探して虚空をかきむしっている。

 恐怖で金縛りにあった志保の足首に、心臓が凍りつくような死の感触が走った。


「ひっ……!」


 見下ろすと、どす黒い水の中から伸びた誰かの手が、彼女の細い足首を骨が軋むほどの力で掴んでいた。それは彼女を、光の届かない底なしの淵へと引き摺り込もうとする、凄まじい執念に満ちた力だった。


 志保は狂乱状態でその手を振り払い、這うようにして居間へ逃げ戻った。

 それ以来、彼女の周囲では、湿度が異常に上昇し始めた。壁紙には黒カビが急速に広がり、窓ガラスは絶えず内側から結露している。志保は、蛇口から漏れる微かな空気の音にさえ、肺が水で満たされる錯覚に襲われ、泡を吹いて過呼吸を起こすほどに追い詰められていった。


 一方、悠斗は大学のキャンパスという日常の風景の中で、逃げ場のない高度に追い詰められていた。

 落下という死の宣告を受けて以来、彼の三半規管は異界の論理に書き換えられ、完全に狂わされていた。平坦な廊下を歩いているはずなのに、視界が垂直に切り立ち、一歩足を踏み出せばそのまま雲を抜けて数千メートルの虚空へ投げ出されるような、内臓をせり上げる強烈なパニックが絶え間なく彼を襲う。


「……はぁ、はぁ、……クソッ、何なんだよ、これ……!」


 工学部棟の三階。かつては低層階だと侮っていたその高さが、今の彼にとっては雲を突く断崖絶壁に等しかった。


 悠斗は窓の外の景色を見る勇気などとうに失い、廊下の隅で頭を抱えて(うずくま)っていた。視覚を塞ぎ、意識を閉ざすことで、狂った平衡感覚がもたらす落下の予感から必死に身を守ろうとしていたのだ。


 だが、その限界ギリギリの拒絶さえも、スマートフォンは容赦なく踏みにじった。 ポケットの中で突如、心臓を直接突き上げるような激しい振動が跳ねたのだ。

 どれほど瞼をきつく閉じようとも、手の中で脈打つそれは、悠斗の意志を完全に無視し、もはや彼の人格を乗っ取った外部の知性として、無残な現実へと彼を強制的に引きずり戻した。

 ジリッ、ジリッ、と肉を焼くような不快な通知音が鳴り止まない。


 震える手で画面を確認すると、彼の秘匿していた裏アカウントが、現在進行形で学内の教授や友人たちを執拗に罵倒する言葉を吐き出し続けている。


『あいつも、あいつも、上から見下ろしてるつもりか。全部、俺が奈落まで引き摺り下ろしてやる』


「やめろ……俺じゃない! 勝手に打つな、勝手に晒すな!」


 悠斗は半狂乱になって画面上の投稿を消去しようとした。だが、指先が削除ボタンに触れる直前、スマートフォンが青白い火花を散らし、激しい拒絶の電気信号を放つ。指を弾き飛ばされ、爪の間から血が滲んだ。


 その夜から、彼は永遠に終わることのない自由落下の悪夢に囚われた。

 漆黒の暗闇の中を、内臓が喉元までせり上がるような凄まじい風圧を受けながら、ただひたすらに落下し続ける。地面に激突し、肉が弾ける寸前で跳ね起きる。だが、目が覚めて安息の場であるはずのベッドに横たわっていても、背中が布団に触れている感覚がない。


 自分の体がまだ重力から見放され、冷たい空中を浮遊し続けているような、吐き気を催すほどの不気味な浮遊感が消えることはなかった。


 彼はすでに、現実という地面を失っていた。残された道は、彼が積み上げてきた虚飾のプライドが激突して砕け散る、その瞬間まで落ち続けることだけだった。

 二人を襲う凄惨な怪異とは対照的に、綾乃の周囲は深い静寂に包まれていた。しかし、その耳に痛いほどの静寂こそが、この世の何よりもおぞましい狂気を孕んでいた。


 綾乃は、机に置かれたスマートフォンを、まるで自分の心臓がそこにあるかのようにぼんやりと眺めていた。


 液晶の中では、写真アプリが持ち主の意志を無視して高速で蠢いている。これまでに彼女が他人の秘密を暴き、その人生を弄ぶために収集してきた数千枚、数万枚の戦利品である画像データ。それが、彼女が指一本触れていないにもかかわらず、冷徹な手際でアルバムごとに整理され、古いものから順にアーカイブの奈落へと送られていく。


「……あれ? この人、誰だっけ」


 消去されていく写真を見つめて、綾乃は言いようのない違和感に襲われた。

 その写真に写り、泣き叫んでいる人物が誰なのか。数日前までその決定的な弱みを握り、優越感という美酒に浸っていたはずの相手の名前が、どうしても思い出せない。データが削除されるのと完全に同期して、彼女の脳からも、その人物に関する記憶という名の神経が一本ずつ、生々しく剥がれ落ちていく。


 記憶が剥がれた後の不気味な空洞を埋めるように、アプリから一通の、機械的なまでに無機質な通知が届く。


『アップデートまであと3日。現在、三田村綾乃という概念を整理し、不要な個体情報を最適化しています』


 彼女の個が、アプリという名の巨大で飢えた器に吸い取られ、機械的に整理されていく。もはや自分と端末の境界すら曖昧になり、思考がデータの濁流に飲み込まれようとしていた、その時だ。


 絶え間なく蠢く画面が突如として暗転し、何の前触れもなくスマートフォンのカメラが強制的に起動した。レンズが開き、画面に映し出されたのは、自室で虚空を見つめる、血の気の失せた自分の顔。だが、カメラのオートフォーカスは、彼女の瞳ではなく、彼女の背後の何もないはずの暗闇に、執拗に焦点を合わせ続けていた。


「カシャッ」


 沈黙を切り裂いて、シャッター音が響く。保存された写真を確認しようとして、綾乃の指が凍りついた。

 そこに写っていたのは、自分一人ではない。青白い自分の首筋に、死者のように冷たい指をかけ、まるで最愛の恋人に寄り添うかのような親密さで背後に立つ黒い狐面を被った影。その影は、現実には存在しないはずの質量を持って、液晶の奥から、彼女自身の瞳をじっと覗き返していた。


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