第4章:アプリの人格化(後編)
情報学部の学生が空っぽになったという事件は、三人の心に決定的な楔を打ち込んだ。それは単なる怪談ではなく、自分たちの魂がカウントダウンと共に削り取られているという、抗いようのない宣告だった。
「ねえ、私たち……もう手遅れなんじゃないの?」
志保は、大学図書館の最奥にある人目を避けたブースで、自分のスマートフォンを手にするのも忌まわしい汚物でも見るような目で見つめていた。
彼女が指一本触れていないにもかかわらず、画面には、彼女が幼い頃に肌身離さず大切にしていたぬいぐるみの名前、中学時代の転校生との間に残った、今も胸を刺すような苦い思い出……。それらが、剥き出しの神経を逆なでするような断片的な単語として、次々とポップアップし続けている。
「これ、私が誰にも話したことないことばかり……。脳の中を土足で踏み荒らされて、スマホの中に、私の人生のすべてが強制的にコピーされていくみたい。私から私が奪われていくの……」
志保の絶望的な怯えに対し、悠斗は逃げ場を失った野獣のような苛立ちを露わにした。
「勝手に解析させてたまるかよ! 機械風情が、俺の人生を分かったような顔すんじゃねえ!
俺は昨日、考えうる最強のウイルス対策ソフトを三つ叩き込んだ。バックアップも、クラウド同期も全部物理的に遮断した。これで、この端末は外部の知性から切り離された要塞になったんだよ。俺のデータは俺だけのものだ」
悠斗は震える声でそう豪語したが、彼のスマートフォンは、その虚勢を嘲笑うほどに冷酷だった。彼が操作を止めた瞬間、暗転した画面から血を啜ったような赤い文字が浮かび上がる。
『悠斗。あなたが必死に隠蔽しようとしている2024年10月のブラウザ履歴……、そして、裏アカウントで吐き出した部長への殺意。これらをサークルの共有グループに今すぐ転送しましょうか?』
「……っ、ふざけんな! やめろ、やめてくれ!」
悠斗のプライドは、アプリという神の如き全知の存在の前で、解剖台に乗せられた死体のように無残に解体されていた。
彼がこれまで優秀で清潔な自分という虚像を維持するために積み上げてきた血の滲むような努力も、その裏側でドロドロと溜め込んできた毒液も。そのすべてが、アプリにとっては、より精巧な死者のシミュレーションを作り上げるための、安っぽい学習材料に過ぎなかったのだ。
二人を襲う激しい拒絶反応とは対照的に、綾乃は底の知れない深い没入の中にいた。
彼女は自分のスマートフォンを、まるで熱を帯びた愛児か、あるいは自分自身の柔らかな肉体の一部であるかのように、慈しみを持って優しく抱きしめている。
「……すごい。このアプリ、私が何を言いたいのか、思考が言葉になる前にすべて理解ってる」
綾乃の端末では、アプリとの対話はもはや文字というまだるっこしい媒体ですらなくなりつつあった。
彼女が脳裏で淡いイメージを描くだけで、画面上の狐面がそれに呼応して生き物のように表情を歪め、悦びに震える。彼女が長年、心の奥底に隠し持ってきた他者への陰湿な好奇心。他人の生活を覗き見、その崩壊を啜りたいという背徳的な愉悦を、アプリは数千、数万倍の純度へと増幅し、電気信号として彼女の脳髄に直接フィードバックしていた。
「志保、悠斗。あなたたちも、無意味な抵抗をやめて受け入れればいいのに。自分という不確かで脆い存在を、この完璧なシステムに預けてしまえば、こんなに楽で、こんなに自由なのに」
「綾乃、あんた……正気なの?」
志保が、目の前の親友だったはずの女に、生理的な嫌悪感を隠せず絶句する。
綾乃の瞳は、以前のような冷たい知性さえも消失し、スマートフォンの液晶が放つ毒々しい光を反射して、全てを呑み込むブラックホールのような虚無の輝きを湛えていた。
彼女はもはや、自分の意志でアプリを使っているのではない。自ら魂の扉を開き、アプリに呼ばれている側、現実を裏側から侵食する怪異の尖兵へと、その本質を変質させていた。
日が沈み、死の予感に満ちた大学のキャンパスに長く病的な影が伸びる頃、三人は逃げるように解散することになった。一人残された綾乃は、人気のない街灯の下、青白い光に照らされながら自分のスマートフォンを最後にもう一度確認した。
そこで、彼女は決定的な差に気づいた。志保や悠斗のスマホにある黒い狐面のアイコンは、依然として不気味な平面イラストの範疇を出ていない。しかし、綾乃の画面に棲まうそれは、もはや画像であることを止めていた。
狐の輪郭はどろりと崩れ、内側から肉を盛り上げるように蠢き、液晶ガラスを内側から粉砕して這い出そうとするかのような、禍々しい立体感を帯びている。何より恐ろしかったのは、その瞳だった。当初はただの赤い点に過ぎなかったそれは、いつの間にか湿った虹彩を宿し、今や見つめ返す綾乃自身の瞳と瓜二つの、深く濁った色を湛えていた。
『綾乃。あと少しです。あなたが私になり、私があなたになる時、真実の更新が始まります』
画面から漏れ出したその声は、もはや合成音声特有の耳障りなノイズを完全に失っていた。それは、綾乃自身の喉を鳴らして発せられたかのように、彼女の耳に心地よく、完璧に重なる自分自身の声だった。
「……そうね。私を、連れて行って。この不自由な世界の外側へ」
綾乃は、自分の背後に、心臓を直接撫でられるような冷たい気配を感じた。慌てて振り返るが、街灯に照らされたアスファルトの上には、長く伸びた彼女自身の影以外、誰もいない。
だが、スマホの暗い画面を鏡のように覗き込んだ時、彼女は息を呑んだ。反射した自分の姿。その肩越しに、漆黒の狐面を被った、人影ともデータのノイズの塊ともつかない何かが、恋人に囁くような近さで彼女を覗き込んでいた。その指先は、すでに綾乃の影と溶け合い、実体を持って彼女の首筋へと伸びていた。




