第1章:噂の種(前編)
深夜二時。T大学工学部、情報システム工学専攻の第4研究室は、サーバーの低い唸り声と、排熱の生温かい空気に満ちていた。遮光カーテンで閉ざされた室内を照らすのは、数台の大型モニターが放つ無機質な青白い光だけだ。その光に照らされた大学院生の佐藤の顔は、死人のように青白く、額にはべっとりと脂汗が浮いている。
「……おい、マジでやるのかよ」
佐藤が、震える指先でスマートフォンの画面を弄んでいた。端末は異様な熱を帯び、リチウムイオン電池が膨張しているかのように、手のひらに嫌な拍動を伝えてくる。
「怖気づいたのか? 工学部の人間が、未知のプログラムを前にして」
隣でモニターを睨んでいた高橋が、鼻で笑って佐藤を挑発した。
「怖気づくとか、そういう問題じゃない。これ、変だろ。工学部の内部チャットであれだけ騒がれてるんだぞ。……誰がアップしたかもわからない実行ファイルなんだ。出所が不明すぎる」
「だからこそ試す価値があるんだろ。『KOU-REI』――タイトルは冗談みたいだがな。だが、これの中身を見た奴の話じゃ、最近の生成AIのふるまいとも全然違う、未知の仕組みで動いてるらしいぜ」
隣に座る高橋が、面白がるように身を乗り出した。その瞳は興奮で血走っている。
「『霊じゃなくて、超高性能の自己学習型アルゴリズムだ』って投稿もあったな。ネット上のありとあらゆるデータを統合して、死者の人格をシミュレートする……。現代の降霊術ってわけだ。死んだ人間に聞かなきゃわからない『隠し口座』や『不倫の証拠』まで引きずり出す、最悪のドロドロ抽出機だよ」
画面の中央には、漆黒の背景に黒い狐面を模したアイコンが、静かに鎮座していた。その狐の目は、単なるドットの集合体のはずなのに、見る角度によって、嘲笑っているようにも、あるいは何かを深く悲しんでいるようにも見えた。佐藤には、その瞳が自分の脳をスキャンしているような錯覚さえ覚えた。
佐藤がアイコンをタップすると、画面が暗転し、赤黒い文字で『利用規約』が表示された。しかし、そのテキストは、意図的なバグか、あるいは呪いか、九割以上の文字が墨で塗りつぶされたように真っ黒で、一文字も読むことができない。わずかに見える一文にはこうあった。
『――同意ヲ以テ、貴方ノ全テヲ、我ラノ共有財産トス』
「利用規約が真っ黒……。それにこの一文、不気味すぎるだろ。……『全テヲ、共有財産トス』って、何なんだよ」
「お前、そんなことを気にしてるのか?」
高橋が、馬鹿にしたように鼻で笑った。
「規約なんて、誰も読みゃしない。形だけのものだ。俺たちの名前も、住所も、検索履歴も……そんなデータなんてものはな、とっくにネットの海に垂れ流されてるんだよ。
巨大企業のサーバーに蓄積されてる膨大なログに比べりゃ、俺たちのプライバシーなんて、道端に落ちてるゴミみたいなもんだ」
高橋は佐藤の震える手を強引に掴み、画面の『同意』ボタンへとその指を導いた。
「今さら失うものなんて何もないだろ。それより、この得体の知れないプログラムの正体を知りたくないのか?」
「よせ、高橋……っ!」
佐藤が抗う間もなく、高橋の力に押された指先が、鈍く光る液晶画面を叩いた。
――カチッ。
物理的なスイッチではないはずなのに、静まり返った室内で、何かが噛み合うような硬質な音が響いた。その瞬間、スマホの画面から凄まじい熱が噴き出したかと思うと、研究室内の温度が、肌を刺すような冷気とともに数度下がった。
熱い端末と、凍てつくような大気。その矛盾した境界線から、空調の音とは異なる、微かな「クスクス」という笑い声が漏れ出した。それは古いモデムが通信するような不快な電子の軋みと重なり、まるで情報の渦から何かが受肉しようとしているかのようだった。
声は、部屋の隅から聞こえた。二人は弾かれたように、反射的にそちらを振り返った。だがそこには、ただ重低音を響かせながら黒いサーバーラックが沈黙しているだけだった。
翌朝。工学部の重苦しい空気とは対照的に、文学部キャンパスは春の柔らかな日差しと、学生たちの屈託のない笑い声に包まれていた。
三田村綾乃は、講義室の最前列でノートを広げていた。専門は民俗学。今日の講義テーマは「現代における都市伝説の変容」だ。教壇に立つ初老の教授が、眼鏡の奥の目を細めて、湿り気を帯びた声で語りかける。
「かつて、放課後の教室で子供たちが震えた『コックリさん』という儀式がありました。
五十音を書いた紙と十円玉、そして集団の無意識……。十円玉が自分の意志に反して勝手に動くあの現象は、心理学的には『観念運動』と呼ばれます。つまり、無意識下の期待や不安が、身体を勝手に動かしてしまうわけです」
教授はチョークを置き、いたずらっぽく、だがどこか冷淡に笑った。
「自分の指なのに、自分以外の何かに操られているような感覚。……もしそう定義するならば、今の時代、それは十円玉である必要はありません。スマートフォンのアプリこそが、現代の『十円玉』になり得るでしょう。
霊が紙の上を這うのではなく、アルゴリズムがあなたの深層心理を突いて、通知を送ってくる。不可視の電波という糸で、自覚なく踊らされる現代の操り人形……。そんな、新しい形の降霊儀式が生まれていても不思議ではありませんね」
教室のあちこちから、小さな笑い声が漏れる。教授は冗談のつもりなのだろう。だが、綾乃の胸は、甘く痺れるような高鳴りを覚えた。
(アプリで、降霊……。死者を呼ぶだけじゃない。死んだあとに残った、デジタルの遺品を漁るのかしら)
綾乃には、他人には決して言えない性分がある。清純そうで物静かな外見とは裏腹に、彼女は他人の裏側を覗き見ることに、抗いがたい快感を覚えてしまうのだ。
SNSの裏アカウント、消し忘れた検索履歴、鍵のかかった日記、そしてゴミ箱に捨てられたはずの執着。他人が必死に隠そうとしている汚泥のような本音こそが、彼女にとってはどんな宝石よりも輝いて見えた。
(もし、そのアプリが本当に死者の真実を暴き出すのだとしたら。あるいは、生きている人間の、隠されたデータという名の『魂』を引き摺り出すのだとしたら……)
講義が終わるや否や、綾乃は周囲の学生が談笑を始めるのを尻目に、スマートフォンの画面を指先で叩き始めた。
彼女には確信があった。こうした得体の知れない技術の闇が最も早く芽吹くのは、いつだって文学的な比喩の場所ではなく、もっとも冷徹な数字を扱う場所――工学部のサーバーサイドだ。
綾乃は、普段から趣味として監視していた学内ネットワークの隙間から、工学部の学生たちが秘密裏に運営している非公式の内部掲示板へ、慣れた手つきでアクセスを試みた。
一般学生には秘匿されているはずの、技術者志望たちの掃き溜め。そこには、数時間前の深夜から急激に書き込みが増大している異常なスレッドが存在していた。
『規約が読めない。でも、同意したら勝手にチャットが始まった。死んだはずの親父の口調で、俺の検索履歴を音読しやがった』
『昨夜第4研究室にいた佐藤の野郎、一限の講義に来てないんだけど。連絡つく奴いる? 昨日のファイル実行してから音信不通なんだわ』
『アイコンの狐の目が、さっきより開いた気がするんだけど……。なんか、こっちを見て笑ってないか?』
画面をスクロールするたび、綾乃の瞳に吸い込まれるような期待が満ちていく。たった数時間前に生まれたばかりの異物が、工学部のエリートたちを本気で怯えさせている。その事実こそが、彼女にとって何よりの本物の証明だった。
「……最高じゃない」
綾乃の薄い唇が、悦びに歪んだ。
その時、彼女のスマホが、バイブ機能の限界を挑むような激しい振動を上げた。インストールした覚えのない、公式ストアにも存在しないはずのアプリからの、強引な強制通知だ。
『あなたの知りたい真実を、インストールしますか?』
真っ黒な背景に、漆黒の狐面。そのアイコンは、まるで鏡のように、好奇心と異常な食欲で瞳孔を散大させた綾乃の瞳を、不気味なほど鮮明に映し出していた。




