陰影を泳ぐイルカ
海は、まるで玻璃の鏡が砕けたかのように、陽光を細かく散らす。沖合に、イルカが一頭、波の陰影を縫うように泳ぐ。その背は、黒く滑らかな弧を描き、ときに水面を跳ねては、銀色の飛沫を宙に撒く。美しい、と思う。だがその美は、どこか虚しく、まるでこの世の果てに漂う夢の残滓のようだ。
私は岩場に腰を下ろし、塩を帯びた風に目を細める。遠く、水平線は青と白の間で揺らぎ、まるで神の筆が未完成のまま放棄した絵画のようだ。かつて、この海辺の町に住む老人から聞いたことがある。イルカは死者の魂を運ぶ使者だと。夜ごと、月光の下で、彼らは亡魂を背に乗せ、冥界の岸へと泳ぐのだという。私は笑った。あんな滑稽な生き物が、魂を運ぶなどと。だが今、こうしてイルカの跳躍を眺めていると、なぜか胸の奥に疼きが走る。
町は静かだ。波の音と、遠くで漁船のエンジンが低く唸るほかは、何もない。かつて、この町には祭りがあった。松明を掲げ、若者たちが浜辺で踊り、イルカの群れを神の使いと讃えたものだ。だが、今やその伝統は色褪せ、ただ古びた祠が崖の陰にひっそりと佇むだけだ。私は思う。人間の営みとは、かくも儚いものか。祭りの喧騒も、恋の囁きも、すべては波に洗われ、イルカの背に消える。
ふと、昨夜の夢を思い出す。暗い海の底で、私はイルカに導かれ、どこかへ向かっていた。海水は冷たく、しかし奇妙に柔らかく、私の身体を包み込む。その先には光があった。淡く、揺らめく光。だが、目覚めたとき、私の手には何も残っていなかった。ただ、枕元に塩の匂いが漂っていただけだ。
イルカが再び跳ねる。陽光がその背に当たり、まるで一瞬の虹を生み出す。私は立ち上がり、岩場を後にする。背後で、波が寄せては返す。その音は、まるで時の流れそのものが、私の足跡を消し去るかのようだ。イルカは泳ぎ続ける。陰影の中を、ただひたすらに。だが、その泳ぎがどこへ向かうのか、誰も知らない。いや、知る必要もないのかもしれない。
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