第88話 私は素材じゃない
オルフェの白衣の袖は丁寧に捲られ、指先に絡むのは、つい先ほど抜き取ったレナの血だ。赤黒い滴が術式の溝を流れ、刻印の中へと吸い込まれていく。
「……これで、揃った」
淡々とした声が石壁に反響する。
透明な水槽の奥。結界陣の中央には、人型の“培養体”が浮かんでいた。人間の骨格に似せて編み込まれた器。肉塊から整えられ、無数の符号で縫い止められ、魔力の糸に吊られている。
(……人間じゃ、駄目だったから……)
レナの喉がひくりと鳴る。さっき見せられた記録帳の単語が、脳裏に刺さって抜けない。蘇生反応、魂座標、固定失敗。失敗を積み上げた先に、いま、これがある。
オルフェの紫の瞳が細い光を帯びた。
口元は、いつになく硬く結ばれている。
「……起動」
低く呟いた瞬間、空気が震えた。結界陣が青白く光を増し、レナの血が触媒となって幾何学文様が一斉に反転する。
「“人”は雑音が多すぎる」
ぽつりと、独り言みたいに言う。
「心臓も、恐怖も、抵抗も。魂座標を縫い付ける前に、器が勝手に壊れる。だから人型の人形を作り始めた。この人形は模倣体の中でも完璧でね」
理屈の形をした言葉が、冷たく整って落ちる。レナは背中を壁に押し付けたまま、呼吸の仕方を忘れそうになる。
水槽の中で培養体が脈動した。骨と筋肉が組み上がるように形を取り、髪が伸び、肌が覆われ、顔の輪郭が現れる。
オルフェは息を飲んだ。
それは、母の面影を模した“何か”だった。
培養体が、ゆっくりと目を開いた。
焦点の合わない瞳が室内を彷徨い、やがてオルフェの顔で止まる。
その口が、かすかに動いた。
「……誰?」
声はひどく薄く、体温のない風の音みたいだった。
なのに、オルフェの心臓だけが乱暴に跳ねた。痛みの方が先に来た。
「母さん……」
オルフェの喉が鳴った。息が引っかかる。
「母さん、俺だ。ほら、これ……」
震える指で、胸元の封印式ペンダントを見せる。
母の形をしたそれは、視線を落とし、首を傾げた。
「……知らない」
その一言で、世界が終わった。
「ここは、苦しい。帰りたい」
その瞬間、この世界を嫌うように身体が、内側から崩れた。
灰が落ちた。
床に散った粒子は、熱も匂いも残さないまま、ただ“失敗”だけを残して消える。
オルフェは動けなかった。
白衣の内ポケットに入れていた紙片を、無意識に掴む。折れた角。擦り切れた縁。指の油で黒ずんだ裏。母の写真はこれしかなかった。
「……顔は合ってた。魂は……? これで合ってたのか?」
母に会っても、何も満たされない。
「これじゃない。俺が欲しいのは、これじゃない……」
オルフェの指先が震えた。
「……俺には母の記憶がない。何もかも知らない……」
オルフェの中の“母”が、もともと存在しない。
会ったとしても母だと断言できるものがない。
それでも、口は勝手に逃げ道を作った。理屈のふりをした、痛みの言葉を。
「……足りない。母さんの記憶を戻す。もっと……君の血を」
低く掠れた声。
レナが視線を逸らさずに、言葉を絞る。
「一度この世界から消えた人は戻らないんだよ。戻ったとしても、それは本物じゃない」
“本物じゃない”。
その一言が、胸の底を抉った。
オルフェは聞こえないふりをする。
聞いたら、全部崩れるからだ。
彼はもう一度、結界の符号を組み替えた。刻印へ血を流し込み、流れを加速させる。赤い光が空間を満たし、空気が肺を圧迫する。水槽の奥の培養体が、また脈動し始める。
「理論上は可能だ。器さえ揃えば、魂の座標は縫える。君の血なら、縫えるはずだ。そうだろう」
息が熱に変わり、言葉が祈りみたいに滑っていく。
「君は……素材としていてくれればいい」
***
その言葉を聞いた瞬間。
レナの瞳の奥が、赤く燃えた。
この人は、「母さん」と呼んだ、その口で。
次の瞬間には他人を「素材」と言う。
怒りでも悲しみでもない。
もっと冷たい、拒絶。
——否定。
「……みんな、私の血しか見ていないんだよね」
レナは目を逸らさずに返した。
「呪われた魔力を持つ血。赤魔石の原料。誰も、私を人だと見ていない。生きているのに、モノとして扱われる。この痛み、あなたにわかる?」
震える声で。
泣きそうな、でもそれ以上に冷えきった声で。
「私は、普通に生きていきたいの。他の子のような、普通の生活がしたい。本当は、ずっと村で暮らしたかった。ただそれだけだったのに……」
レナは見上げた。睨んだ。初めて、憎しみで誰かを。
「私は素材じゃない!」
その瞬間だった。
空気が“砕けた”。小瓶の中の血が、媒介となった。
レナの血に含まれる膨大な魔力が、外部からの術式を媒介にして暴発する。
魔法陣が描かれたわけでもない。詠唱もなかった。
ただ、流された血と怒りが重なり、極大魔術として噴出した。
レナの足枷の紋が一度だけ明滅して、音もなく消えた。
金属の留め具がほどけるように外れた。
赤い光は、寝台を避けるように弾けた。
まるでそこだけ、見えない結界が張られているみたいに。
サラの頬に落ちかけた火の粉すら、寸前で軌道を変えた。
中心は、オルフェだった。
「──っ、何……っ!?」
オルフェの瞳が見開かれる。
無数の赤い光の槍が炸裂し、封印陣を貫き、結界を割り、彼の身体を穿つ。
「がッ……あ、ああ……ぁ……!!」
爆風の中心で、オルフェは白煙の中に崩れ落ちる。
血が、実験具の上に飛び散った。
肉が焼け、衣服が裂ける臭いが満ちた。
──だがレナの表情は、それを見ても微動だにしなかった。
状況を呑み込んだのは、数秒遅れてからだった。
「……あ……」
喉の奥から、空っぽの息だけが漏れる。
彼女の心は、もう限界だった。
「人間として見て欲しかった」
たったそれだけの願いが、彼には届かなかった。
白煙の向こうで、白衣の影が膝を折ったように見えた。




