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Fated Oath ―誓約の果て―  作者: りんごあめ
第ニ章 真贋の饗宴─ Carnival of Blood
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第88話 私は素材じゃない

 オルフェの白衣の袖は丁寧に捲られ、指先に絡むのは、つい先ほど抜き取ったレナの血だ。赤黒い滴が術式の溝を流れ、刻印の中へと吸い込まれていく。


「……これで、揃った」


 淡々とした声が石壁に反響する。


 透明な水槽の奥。結界陣の中央には、人型の“培養体”が浮かんでいた。人間の骨格に似せて編み込まれた器。肉塊から整えられ、無数の符号で縫い止められ、魔力の糸に吊られている。


(……人間じゃ、駄目だったから……)


 レナの喉がひくりと鳴る。さっき見せられた記録帳の単語が、脳裏に刺さって抜けない。蘇生反応、魂座標、固定失敗。失敗を積み上げた先に、いま、これがある。


 オルフェの紫の瞳が細い光を帯びた。

 口元は、いつになく硬く結ばれている。


「……起動」


 低く呟いた瞬間、空気が震えた。結界陣が青白く光を増し、レナの血が触媒となって幾何学文様が一斉に反転する。


「“人”は雑音が多すぎる」


 ぽつりと、独り言みたいに言う。


「心臓も、恐怖も、抵抗も。魂座標を縫い付ける前に、器が勝手に壊れる。だから人型の人形を作り始めた。この人形は模倣体の中でも完璧でね」


 理屈の形をした言葉が、冷たく整って落ちる。レナは背中を壁に押し付けたまま、呼吸の仕方を忘れそうになる。


 水槽の中で培養体が脈動した。骨と筋肉が組み上がるように形を取り、髪が伸び、肌が覆われ、顔の輪郭が現れる。


 オルフェは息を飲んだ。


 それは、母の面影を模した“何か”だった。


 培養体が、ゆっくりと目を開いた。

 焦点の合わない瞳が室内を彷徨い、やがてオルフェの顔で止まる。


 その口が、かすかに動いた。


「……誰?」


 声はひどく薄く、体温のない風の音みたいだった。

 なのに、オルフェの心臓だけが乱暴に跳ねた。痛みの方が先に来た。


「母さん……」


 オルフェの喉が鳴った。息が引っかかる。


「母さん、俺だ。ほら、これ……」


 震える指で、胸元の封印式ペンダントを見せる。

 母の形をしたそれは、視線を落とし、首を傾げた。


「……知らない」


 その一言で、世界が終わった。


「ここは、苦しい。帰りたい」


 その瞬間、この世界を嫌うように身体が、内側から崩れた。

 灰が落ちた。


 床に散った粒子は、熱も匂いも残さないまま、ただ“失敗”だけを残して消える。


 オルフェは動けなかった。


 白衣の内ポケットに入れていた紙片を、無意識に掴む。折れた角。擦り切れた縁。指の油で黒ずんだ裏。母の写真はこれしかなかった。


「……顔は合ってた。魂は……? これで合ってたのか?」


 母に会っても、何も満たされない。


「これじゃない。俺が欲しいのは、これじゃない……」


 オルフェの指先が震えた。


「……俺には母の記憶がない。何もかも知らない……」


 オルフェの中の“母”が、もともと存在しない。

 会ったとしても母だと断言できるものがない。


 それでも、口は勝手に逃げ道を作った。理屈のふりをした、痛みの言葉を。


「……足りない。母さんの記憶を戻す。もっと……君の血を」


 低く掠れた声。


 レナが視線を逸らさずに、言葉を絞る。


「一度この世界から消えた人は戻らないんだよ。戻ったとしても、それは本物じゃない」


 “本物じゃない”。


 その一言が、胸の底を抉った。


 オルフェは聞こえないふりをする。

 聞いたら、全部崩れるからだ。


 彼はもう一度、結界の符号を組み替えた。刻印へ血を流し込み、流れを加速させる。赤い光が空間を満たし、空気が肺を圧迫する。水槽の奥の培養体が、また脈動し始める。


「理論上は可能だ。器さえ揃えば、魂の座標は縫える。君の血なら、縫えるはずだ。そうだろう」


 息が熱に変わり、言葉が祈りみたいに滑っていく。


「君は……素材としていてくれればいい」



***



 その言葉を聞いた瞬間。

 レナの瞳の奥が、赤く燃えた。


 この人は、「母さん」と呼んだ、その口で。

 次の瞬間には他人を「素材」と言う。


 怒りでも悲しみでもない。

 もっと冷たい、拒絶。


 ——否定。


「……みんな、私の血しか見ていないんだよね」


 レナは目を逸らさずに返した。


「呪われた魔力を持つ血。赤魔石の原料。誰も、私を人だと見ていない。生きているのに、モノとして扱われる。この痛み、あなたにわかる?」


 震える声で。

 泣きそうな、でもそれ以上に冷えきった声で。


「私は、普通に生きていきたいの。他の子のような、普通の生活がしたい。本当は、ずっと村で暮らしたかった。ただそれだけだったのに……」


 レナは見上げた。睨んだ。初めて、憎しみで誰かを。


「私は素材じゃない!」


 その瞬間だった。


 空気が“砕けた”。小瓶の中の血が、媒介となった。


 レナの血に含まれる膨大な魔力が、外部からの術式を媒介にして暴発する。

 魔法陣が描かれたわけでもない。詠唱もなかった。

 ただ、流された血と怒りが重なり、極大魔術として噴出した。


 レナの足枷の紋が一度だけ明滅して、音もなく消えた。

 金属の留め具がほどけるように外れた。


 赤い光は、寝台を避けるように弾けた。

 まるでそこだけ、見えない結界が張られているみたいに。

 サラの頬に落ちかけた火の粉すら、寸前で軌道を変えた。


 中心は、オルフェだった。


「──っ、何……っ!?」


 オルフェの瞳が見開かれる。

 無数の赤い光の槍が炸裂し、封印陣を貫き、結界を割り、彼の身体を穿つ。


「がッ……あ、ああ……ぁ……!!」


 爆風の中心で、オルフェは白煙の中に崩れ落ちる。

 血が、実験具の上に飛び散った。

 肉が焼け、衣服が裂ける臭いが満ちた。


 ──だがレナの表情は、それを見ても微動だにしなかった。

 状況を呑み込んだのは、数秒遅れてからだった。


「……あ……」


 喉の奥から、空っぽの息だけが漏れる。

 彼女の心は、もう限界だった。


「人間として見て欲しかった」


 たったそれだけの願いが、彼には届かなかった。


 白煙の向こうで、白衣の影が膝を折ったように見えた。

 

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