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Fated Oath ―誓約の果て―  作者: りんごあめ
第ニ章 真贋の饗宴─ Carnival of Blood
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第87話 君の安全はあの男が側にいるときだけ

 レナは一歩、二歩と後ずさった。背中が冷たい壁に触れる。


「研究に協力してほしいんだ」


 オルフェの声は、穏やかだった。


「嫌だと言ったら?」


 問い終える前に、オルフェの手がサラの首へ伸びた。

 眠りの体温を確かめるみたいに、指が喉元を包む。


「君にそんな選択肢はあるのかな」


 囁きだった。脅しの形をした、確認。


「や、やめて……!」


 隔壁の向こうで、エリックが何か叫んでいる。

 口は動くのに、音だけが世界から削られていた。


 オルフェはレナだけを見る。


「君が抵抗するなら、この娘の首の骨を折る。……それか、実験に回してもいい」


 レナは肩を震わせながらオルフェを無言で睨んだ。


「──死なない程度に、君の血が欲しいんだ。たっぷりと」


 白衣の懐から、細い採血管を取り出す。


「君も知ってるだろう。世の中は“偽物”で出来てる」


 距離は詰めない。視線ひとつで結界の角度が変わり、空間が狭くなる。


「粗悪な模造魔石。合成獣。混ぜ物の血。命の形だけを真似た器。あれは全部、汚れだ。価値がない」


 指先が空中をなぞり、薄い魔法陣が一瞬だけ灯って消えた。隔壁の光が一段濃くなり、向こう側のエリックの輪郭が滲んだ。


「普通の人間じゃ赤魔石には届かない。でも、君は違う。君の血は“本物”だ。俺が欲しいのは魔石でも結果でもない。再現だ」


 オルフェは小さなガラス瓶を見せる。封蝋で閉じるための器。


「まだ会ったことのない母を、完全に蘇らせる。声も、体温も、癖も、魂座標も。欠けたままの存在を、俺の前に戻す」


「……そんなの、無理だよ」


「無理かどうかは、俺が決める。君はまだ、自分の立場を理解してないね。君の安全は、あの男が側にいる時だけだ」


 オルフェは薄く笑った。


「洞窟の演習。A級やS級が出た。君一人では逃げ切れなかった」


 指先で、空中に小さな円を描く。結界の名残みたいに緩く光る。


「でも、彼がいた。君の前に立って、刃と魔術で全部殺した。君が生き延びた理由は、それだけ」


 レナの喉が鳴る。


「もし彼がいなかったら?」


 オルフェは首を傾ける。


「とっくに死んでるよね。洞窟演習だけじゃない。君は、あの男にかなり助けられてるんじゃない?」


 言葉は静かで、容赦がない。


「君が“普通の女の子”でいられるのは、彼が狂ったみたいに守ってるからだ。守られているのに、自分の足で立ってると思ってるなら、それは勘違いだよ」


 隔壁の向こうで、エリックが何か叫ぶ。届かない。


 オルフェは視線を逸らさず、追い打ちをかける。


「彼がいない今、君が選べることは何もない。君が拒むなら、この子から先に失う」


 サラの首に、指がほんの少しだけ沈む。


「……っ。……拒まないよ。だから、サラとエリックに……絶対に手を出さないで」


 レナの言葉をオルフェは了承と捉えた。

 採血管を掲げる手が、嬉しさで小さく震えた。


「さあ、観測を始めよう。レナ。君は今日から、俺の研究の中心だ」



 ***



 レナは足枷をはめられた。

 冷たい金属が足首に噛み合い、皮膚の上を滑った瞬間だけ、ぞくりとした悪寒が背骨を走る。


「逃げられないようにね」


 オルフェは屈むこともせずに指先だけを鳴らした。足枷の留め具に刻まれた紋が淡く灯り、鍵穴が“閉じる”音がした。

 足首から冷えが這い上がり、床の線と繋がった感覚がした。動ける範囲を、最初から決められた。


「これで安心して始められる」


「……っ、やめ──!!」


 叫ぶより先に、腕を掴まれていた。金属音と共に注射器のような装置が展開され、オルフェの白衣の袖口から折り畳まれた針管が滑り出て、彼女の二の腕に冷たい針が突き刺さる。


「ッ、あ……!」


 鋭い痛みが走り、続けて、じわりと熱が奪われていく。血が引かれる感覚。脈打つたび、命が吸い出されていく。


 オルフェの手元には、レナの血が満ちた魔術管がずらりと並んでいた。一本、また一本と、管が増えていく。透明な管の中で、血はすぐに沈まず、微かに光を含んで揺れていた。


「……すごい。やっぱり、この量、この純度。このままなら……」


 彼はうっとりと呟いた。まるで芸術品でも眺めているような目だった。痛みや恐怖ではなく、“データ”としての価値だけを見ている瞳。レナの腕ではなく、脈のリズム、色の濃さ、満ちていく速度を見ている。


「やめて……お願い、やめて……!」


 声は掠れた。拒絶の言葉なのに、弱々しく震える。血が抜けていくたびに、世界の輪郭が少しずつ薄くなる気がした。


 オルフェは表情を変えない。

 痛めつけている自覚も、慰める意思もない。


 どれほどの血を抜かれたのだろうか。わからない。だが小瓶にいくつも満たされるほど、血が奪われていく。

 レナの意識が霞む。腕が痺れる。


 呼吸をするたび、胸の奥が薄くなる。立っているのに、床が遠い。音が膜を一枚隔てたみたいに鈍くなり、視界の端が黒く滲んでいく。


 オルフェはその滲みを、研究の進行状況として眺めていた。小瓶を並べ、封蝋の準備をして、一本ずつ丁寧に確認する。まるで薬品の分量を揃える作業のようだ。


「君には感謝してるよ。これで、前に進めるかもしれないんだ……やっと……」


 オルフェの恍惚とした表情をレナは滲んだ視界の中、見ていた。


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