第86話 鏖(みなごろし)
※本話は残酷描写(流血・死体の描写)を含みます。ご注意ください。
裏組織の本拠地だった。
ザイラスが従属していた「供給網」の核心部。
街道の北西、放棄された鉱山の奥に口を開けている。
レオンは森の影に身を潜め、遠くの坑口を見据えた。外見は廃坑だが、入口には松明の灯りが絶えず、人の出入りがある。
(……ここだな)
風の向き、足音、魔力の流れ。彼はそれらを一つずつ拾い、ポケットの中の折り畳まれた紙を確かめた。採掘図の断片と、昨夜盗み聞きした見張りの交代表。
「北坑・二時交代」走り書きの一文。
交代の時刻まで、あとわずか。
レオンは低く身を落とし、地を這うように前進する。湿った草の匂い、土の冷たさ、油と鉄の混ざった空気。闇の中で感覚が研ぎ澄まされていく。
その瞬間、気づいた。
空気に混じるわずかな魔力の乱れ。転移術式の痕跡だ。結界の核は坑道の奥にある。そこを断てば、この組織の流通網は潰える。
見張りが交代に動いた瞬間、レオンの影が揺れる。背後に回り、首筋に手刀。骨が小さく鳴り、男は声も出せず崩れた。
二人目が息を吸いかけた瞬間、喉元を掴んで音を折る。倒れる体を支え、地面に触れさせない。松明の揺れる音だけが残る。
次の兵へ、また次へ。
短い動作が連鎖し、気づけば坑道外の見張りは一人残らず倒れていた。
坑口に近づくと、結界の膜がかすかに震えた。
個人では張れぬ規模だ。だが、継ぎ目は必ずある。
レオンは指先で空気を撫で、目を細めた。膜の流れが一瞬だけ逆流した。
そこだ。
彼は静かに息を吐く。
刃を抜かず、空気そのものを切る。
目に見えぬ断線が走り、結界が音もなく裂けた。
同時に、彼は外へ繋ぐ魔力の導線や外部へ伸びる通信経路を切り落とした。
──報せは、誰にも届かない。
壁に指先を滑らせ、音を立てぬよう奥へ進む。
並んだ灯り、軌道の跡、運搬台車の車輪痕。
人と物の流れが、ここで循環していた。
──だが今夜、それは止まる。
青い瞳が闇に光を帯びる。
(ここから先は……殲滅だ)
坑道の奥、石造りの広間。
指揮を執る上層部が長机を囲んでいた。
松明が揺れ、書簡や魔術書、赤黒く濁った魔石の欠片が散らばる。
重い扉が押し開かれ、静寂が裂ける。
「──誰だ」
振り返るより早く、青い閃光が奔った。
二人が崩れ、血が机を濡らす。
「侵入者だ! 結界を──!」
叫びは途中で切れた。
喉が鳴る前に、斬撃が声帯ごと奪っていた。
レオンに迷いも逡巡もない。
そこにあったのはただひとつ、少女のための殲滅の意志。
広間は阿鼻叫喚と化した。
逃げ惑う者、魔術を詠唱する者、武器を構える者。
レオンの剣は、詠唱の前に喉を裂き、防御陣を構築する前に心臓を穿った。
反撃は許されない。
彼にとって、この場の人間はすべて“レナを狙っている敵”だった。
机の影から、ひとりが転がり出た。
血まみれの掌で床を叩く。
「転移陣を……!」
光の円が開き、男は這って飛び込む。
半身が抜けた瞬間、レオンの斬撃が円周をなぞる。
ぶつり、と腰で切れた上半身が床へ落ちた。
途切れたものを彼は見もしなかった。
***
レオンは血の跳ねる広間を踏み越え、最奥へ進む。
剣先が、崩れた幹部の喉元で止まった。
「……聞く。ファウレスの血について。お前たちはどこまで知って、どこまで渡した?」
床に崩れた幹部格の男が、震える声で答える。
「ひ、ひぃ……断片に過ぎない……生きている、ということだけ……!」
「……それだけか」
「ザイラスから聞いたのはその程度だ! 取引にも回していない! た、助け──」
その声は最後まで続かなかった。
蒼い閃光が一閃、喉を裂き、男は崩れ落ちる。
レオンは死体を見下ろし、淡々と結論だけを口にした。
「……なるほど。ザイラスの奴、俺を騙したというわけか」
剣先を払う。
散った血が床に落ちる音だけが、無人となった広間に響く。
彼は机の上の魔術書、血塗られた研究記録、収支と取引の書簡を見渡した。どれもが組織の存在を証明する証拠だ。
「……全部、燃やす」
レオンは足元に魔法陣を一つ描いた。
青白い魔力が滲み出し、周囲の空間が圧迫されるように歪む。
《魔炎結界》
地面を這うように魔力が広がり、部屋全体を覆っていく。
指先を鳴らすと同時に、魔力が爆発した。
鈍い爆音とともに炎が吹き上がり、書類も血も、逃げ場ごと焼き潰していく。
(……レナの名が、ここに残る可能性を潰す)
廊下に立ち並ぶ扉を次々と斬り払う。
背後に隠れていた研究員、書記官、護衛兵。声を上げる暇もなく沈んだ。
階層を降りるたび、声が消え、炎だけが広がっていく。
やがて、最後の文書庫が燃え落ちた。灰が舞い、崩れた梁が火花を散らしながら落ちていく。
レオンは燃え盛る光景の中を一歩も退かずに歩み、静かに外へ出た。背後の拠点は轟音と共に崩れ落ちる。
「……一つ、片付いた」
吐き捨てる声は冷徹で、その奥に焦燥だけが残った。
(情報が漏れる前に潰す。漏れたなら、また潰す。絶対に、知られてはいけない)
夜空に立ち昇る炎の下、レオンの瞳は暗く燃え続けていた。
***
燃え落ちた拠点を背に、レオンは静かに剣を収めた。
夜風が熱気を攫い、崩壊の轟音は次第に遠ざかっていく。
(……終わった。だが、時間はない)
レナの血が知られた以上、油断すれば必ず狙われる。
焦燥が、胸の奥を焼いていた。
学院へ戻ろうと足を踏み出したその時。
ふと、胸ポケットに仕込んでいた鍵が微かに振動した。
遮断を検知して警告している。
(……位置情報が、読めない?)
刹那、背筋を冷たいものが走る。
オルフェ。
あの銀髪の魔術師が結界で遮断しているとしたら……。
急ぎ学院へ戻る。
寮の廊下、レナの部屋の前。
そこに、小さな光を放つ“通信石”が置かれていた。
「……これは」
拾い上げると、石の中に聞き覚えのある声が残響していた。
『──レオン。レナが危ない。サラが囚われてる。研究棟の外縁、森の端。旧研究所に来い。急げよ』
聞き慣れた、皮肉を帯びた声。
エリックのものだった。
レオンの碧眼が、鋭く細められる。
石を握りしめる音と共に、躊躇は消えた。
(……間に合え。レナを奪わせるわけにはいかない)
黒い外套を翻し、青年の影は夜の森へと駆けた。




