第7話 仮面の下
「おはよう、レオンくん」
「……ああ」
廊下で声をかけられると、レオンは軽く頷き返した。言葉数は少ないが、愛想が悪いわけではない。誰にでも平等に接し、講師にも礼儀正しく振る舞う。課題提出は常に時間厳守で、授業態度も真面目だ。成績は、Eクラスの中でも抜きん出ている。
だが、生徒たちは皆知っていた。彼に近づくと、距離感が狂う。話していても、どこか心が凍りつくようだ。優しい声をかけられても、そこに“熱”は感じられない。
「……あいつ、何考えてんのか分かんねぇ」
「でも、無視するわけでもないし……下手な奴よりはよっぽどマシだろ」
「いや、逆に怖ぇよ。無関心っていうか、興味がないだけっていうか……」
孤高の氷壁――それがレオンに抱く印象だった。
誰もその壁を越えられない。少なくとも、普通なら。
「何でレナは平気なんだ?鈍感すぎだろ」
「よくパートナー続けられるよな」
「レナって昔パートナー殺したんだっけ?あの男は死にそうにないな」
廊下の先で、レナが手振りを交えてレオンに何かを話しかけている。レオンも小さく口元を動かし、普通に応えていた。
その様子は、氷の壁にだけ小さな扉が開いているように見えた。
***
実技訓練室へ向かう廊下は、昼下がりの柔らかな光に満ちていた。レオンの隣を歩くレナは、ふと視線を横に逸らし、廊下の端をのそのそ歩く小さな影に気付く。
「最近この辺に住み着いてるみたいだよ」
レナは歩みを緩め、しゃがみ込む。
「誰か餌あげてるのかな、人に慣れてる。かわいい」
差し出した手に、猫は警戒もせず額をすり寄せてきた。レナはふにゃっと笑い、その頭を撫でる。その仕草は無防備で、柔らかな空気を纏っていた。レオンは、その横顔をじっと見た。
「……お前、そんな風に笑えるんだな」
「え?」
「俺といるとき、いつも嫌そうじゃないか?そんな顔、見たことがないぞ」
あまりにあっさりした物言いに、レナは一瞬瞬きをした後、肩をすくめる。
「……そうかな?まあ、そうかも。命の危険がなければ、多少は笑えるよ」
レオンは、思わず短く息を吐いた。そのため息には苛立ちでも呆れでもなく、言葉にならない感情が微かに滲んでいた。
猫は二人の間をするりと抜け、どこかへ消えていった。
残されたのは、まだ微かに温もりを残す空気と、互いに視線を合わせないまま歩き出す二人だけだった。
その夜。
レナは学院からの支給金で買い出しを終え、裏路地を通って寮に戻る途中だった。細い路地。人気のない場所。
そこで彼女は見覚えのある金髪の影を見つけた。
「……レオン?」
思わず声が出た。
だが振り向いた彼の顔は、昼間とは別人のように冷たかった。
「……ここで何をしてる?」
低く、鋭い声。
言葉を探すレナをよそに、彼は視線を逸らした。
「俺のことは見なかったことにしろ」
それだけを言い放ち、彼は歩き去った。
すれ違うとき、レナは空気が変わるのを感じた。
温度ではなく、まるで殺気のような何かだった。
レオンの足は町の奥へと向かう。
一般の生徒が決して近づかない場所へ。
***
ある建物の裏口。扉の先はまるで別世界だった。
金で動く者たち。情報を売り買いする者たち。命を賭ける者たちが集う。
その中に、一人の少年がいた。制服ではなく、漆黒の服を纏っている。
「……用件は」
「仕事だ。標的はこれだ。軍の実験から逃げ出した魔術師。昨晩目撃された。報酬は2万リル」
レオンは書類を受け取り、写真を一瞥する。
「場所は?」
「地下水路の旧魔導路。お前なら間に合う」
軽く顎を上げ、背中の剣に指をかける。
「先払いだ。信用はしない」
「……相変わらずだな。取引の流儀は変わらない」
テーブルに置かれた袋を確認し、レオンは何も言わず席を立った。
地下水路。静寂の中に足音だけが響く。
標的は逃げるが、足を引きずっている。
魔術の発動音。結界の点火。焦りと恐怖が漂う。
レオンは無言で魔術陣を展開し、詠唱を始めた。
「──穿て、絶氷の杭」
詠唱の終わりと同時に氷の魔術が標的の足元を凍らせた。動きが止まる。次の瞬間、レオンは剣を抜き、寸分の狂いもなく喉元を裂いた。標的は短く息を詰まらせ、崩れ落ちる。
床に零れた血を見下ろしながら、彼の目には一切の感情はなかった。そして、血の中を踏み越え、静かに立ち去った。
***
この学院に、裏社会で“殺し屋”として動く生徒がいることなど、誰も知らない。
だが彼は今日も、平然とEクラスの席に座っている。
──仮面のままで。