第8話 あの笑顔が、誰かに向いているだけで
昼の中庭。
風が草花を優しく揺らし、ベンチの上には、柔らかな日差しが降り注いでいた。
――その中に、レナがいた。
珍しく、誰かと楽しそうに話していた。見知らぬ男子生徒だった。
普段は、いつも一人のくせに。
あんなふうに笑ってたか? 少なくとも、俺の前では――
レオンの足が、無意識のうちにそちらへと向かっていた。
(……なんだ、あれ)
喉の奥に引っかかるような違和感。
胸の奥がざわざわと騒ぎ出す。理由もなく、ただ苛立ちだけが膨らんでいく。
気づけば、足は勝手に速くなっていた。
そして、そのまま――ふたりの会話に割り込むように、鋭い声をぶつける。
「おい。もうすぐ実技だぞ」
レナが、ぱっと顔を上げた。
「えっ、そうだったっけ?」
「時計くらい見とけ。急げ」
有無を言わせず、レオンはレナの前に出るようにして歩き出す。
ぽかんとした表情の男子を置き去りにして、レナは少し困ったように笑った。
「……じゃあ、またね」
そう言って、ベンチを立ち、レオンの後を追う。
「……急にどうしたの?」
「別に。時間にルーズなやつは嫌いなんだよ」
そっけなく言い捨てたその声には、わずかに棘が混じっていた。
――自分でも分からない。
なんで、あんなに不機嫌だったのか。
なんで、誰かと笑い合っている姿に、反応してしまったのか。
言葉にできなくても、心のどこかがざわついていた。
風が吹いていた。
午後の屋上は静かで、空はどこまでも高く、青かった。
レナは、いつものように古びた柵にもたれて、のんびりとパンをかじっている。
レオンはその隣で、無言のまま購買のサンドをかじっていた。
しばらく沈黙が続いたあと、不意にレオンが口を開く。
「……さっきの。あの男。知り合いか?」
レナがきょとんとした顔で、レオンを見た。
「え? ああ……うん。Dクラスの人。模擬戦のときにちょっと話しただけだよ」
「……そうか」
レオンは視線を空に戻す。
けれど、口元がわずかに引き結ばれていた。
レナはそんな微妙な変化に気づかず、ぱっと明るい顔になる。
「それより聞いてよ! バイト、決まりそうなんだ!」
目を輝かせて、楽しそうに話し始める。
レオンはその顔をちらりと見て、思わず目を細めた。
「……お前、年齢誤魔化したんじゃねぇのか」
「当たり前でしょ! “15です”って言った!」
楽しげに笑うレナ。
その無邪気な様子に、レオンはなんとも言えない気持ちになる。
「街の小さなカフェなんだけど、すごく雰囲気が良くて……! 今度オープンしたら、レオンも来てよ!」
まるで子どもみたいな笑顔。
キラキラした瞳。
それを向けられて、レオンは――あえて冷たく言い放つ。
「嫌だ。面倒くさい」
「だと思った」
レナは苦笑いして、パンをひとかじり。
「レオン、そういうの苦手そうだもんね」
「……ああ。苦手だ」
嘘じゃない。
人混みが嫌いなだけ。
喧騒が苦手なだけ。
だけど――
もし、彼女がそこで他の誰かと笑っていたら。
客の男たちと気軽に話していたら。
胸の奥がざわざわと軋む。
(……なんなんだ、俺は)
わけのわからないこの感情に、答えは出ない。
だからレオンはただ黙って、空を仰いだ。
空は、どこまでも青く、やけに高かった。