第84話 研究棟にて
「レナ、ここで、何してるの」
不意に背後から声が落ちた。振り向くと、エリックが立っていた。
「え……エリック?」
安堵と驚きが混ざって、変な声が漏れる。彼はいつもの穏やかな顔のまま、目だけが真剣だった。
「なーんだか、嫌な予感がしてさ。こういう無茶、すると思ってた」
「……っ」
胸が詰まる。助かったと思ったのに、同時に怖かった。巻き込んでしまう。
「……エリック。だめ、巻き込めない。これは、私の……」
「巻き込めない?」
遮る声は穏やかで、逃げ道がなかった。
「もう巻き込まれてるんだよ、俺たちは。学院で何が起きてるか見ただろ? キメラも、誘拐も。これ以上、君一人に背負わせない」
「でも……っ」
「君が行くなら、俺も行く」
揺らがない瞳。レナは一瞬だけ視線を落として、唇を噛んだ。断ち切るべきなのに、この言葉が温度を持ってしまう。
やがて小さく頷く。
「……ありがとう。……ごめんね」
「謝るなよ。俺が決めてる」
エリックは軽く笑って、ツタに絡まれた建物を見上げた。
「……それにしても、嫌な場所だな。近づくだけで正気が削られそう」
二人で並び、扉へ向かう。レナが一歩踏み出した瞬間、ぴり、と空気が鳴った。薄い膜が軋むように震える。
「やっぱり結界か……」
エリックが眉を寄せる。だが、拒む気配はない。
扉の前で、膜が一瞬だけ“緩んだ”。
レナの気配に反応して開き、その瞬間だけ隣の人間まで通してしまう。
「招かれざる客も入れてくれるみたいだ」
エリックが低い声で言った。
レナは答えられない。
ただ喉が乾くように緊張している。
「オルフェ・クライド。学院じゃ天才って呼ばれてた奴が、なんでサラを攫うんだ。なんでレナまで……」
分かっている。言葉にした瞬間、何かが壊れる気がして、レナは首を振った。
(エリックには、知られたくない。彼の前では、普通の子でいたい。けど……ここに入ったら、それはもう無理かもしれない)
「……分からない。でも、行くしかないの」
エリックは少し黙って、深く息を吐く。
「分かった。無事に帰ったら、ケーキ食いに行こうな」
その軽さに、涙が出そうになる。レナは瞬きして飲み込み、二人で重たい扉に手をかけた。
***
扉が開いた途端、ひやりとした空気が流れ込んできた。
中は、思った以上に整然としている。錆びた器具も、崩れた棚もない。研磨された金属器具。揃えられた試薬瓶。床の魔法陣は線一本乱れず、まるで今、描き終えたばかりだ。
だが、鼻の奥に引っかかる。
薬品の匂いのさらに下。洗い流したはずの血だけが、空気に“残っている”。
「……廃棄された研究棟、のはずだよな」
エリックが低く呟いた。声が小さいのに、やけに響く。
レナは無意識に腕を抱いた。乱雑さがないことが、逆に怖い。ここは、汚れないように使われている。
床に目を落とす。石畳の継ぎ目だけが、妙に赤黒い。磨かれているのに、そこだけ何かが染み込んでいるようだ。
「レナ……行くか?」
頷くしかない。サラがここにいるなら、引き返せない。
「Sクラスのときから知ってたけど、まさか個人でここまでの研究施設を持ってるとはな。禁術に狂ってるのは本当だったってわけだ」
レナは何も言わず、ただ拳を握りしめていた。
奥の机の上に、革表紙の記録帳が置かれていた。見たことのない古代符号が、背表紙に刻まれている。
エリックがページを少しだけめくる。彼の指が止まった。
図は綺麗だった。綺麗すぎる。骨格の比率、筋の走り、血管の枝分かれ。教本みたいに整っているのに、添えられた文字が冷え切っている。
“死亡後三分”
“蘇生反応”
“魂座標 固定失敗”
“再起動後の異形化”
「……これ、死者蘇生の手順……?」
声が、さっきより低い。
次の頁には走り書きがある。筆圧が強く、紙が少し削れていた。
“模倣体では限界。核が偽物だと、戻るのは『動き』だけで『人』じゃない”
その下に、さらに短い一行。
“同条件 被験体(人間)にて再試行”
続くのは、数字だけ。
“心拍:一拍”
“意識:なし”
“結果:反転位相が肉体へ噛み、形状崩壊”
レナの喉が鳴った。研究の記録。感情を削ぎ落とした成功と失敗の羅列。けれど、そこに並ぶ“素材”は人間だ。
エリックはページを閉じる。閉じた音が、やけに乾いていた。
「……倫理観ゼロなのは、今も変わってねーな」
***
奥の部屋の扉を開けた瞬間、甘ったるい薬品の匂いが鼻を刺した。
広い実験室。壁には魔力を抑制する紋が淡く刻まれ、室内の空気だけが薄く重い。
そして中央の寝台に、サラがいた。
「……サラ!」
レナが駆け寄る。彼女は深い眠りに沈んでいる。呼吸は浅いが整っていた。苦しそうではない。けれど手首に小さな刻印。眠りの術式だ。
「……無事……?」
震える声に、エリックが素早く覗き込む。
「生命反応は安定してる。ただ眠らされてるだけだ」
そのとき。
ギィ……と扉が軋んだ。
振り返ると、ゆらりと人影が立っている。無造作な銀髪、紫の瞳。
「来たんだね、レナ……」
白衣の裾を引きずるように現れたのは、オルフェだった。




