第83話 罠
「──君、サラだっけ?レナ・ファリスの友人だったよね」
名を呼ぶ声に、彼女は振り返った。
そこにいたのは、銀髪の青年。
「……オルフェさん?」
声に答えるように、彼は一歩、影の中から姿を現した。
紫の瞳は感情を欠いたまま、ただ無表情に彼女を見下ろしている。
「少し話がしたかったんだ」
低く、落ち着いた声。
「え……あ、あの……」
「すぐに終わる」
その瞬間、オルフェの指先に紫電が走った。
術式は一切の詠唱を伴わず、空気に滲むだけ。
サラの視界が揺らぎ、瞼が急激に重くなる。
「──っ……」
「眠っていればいい。少しの間だけ」
抗う暇もなく、サラの身体は崩れ落ちた。
だが地面に触れる前に、オルフェの結界がすくい上げる。
彼は崩れゆく少女を抱え、その髪を無感情に見つめた。
(……これでいい)
彼の頭の中にあるのは、レナの名。
サラはレナにとっての友人。
条件は揃っている。
オルフェは一瞥も後ろを振り返らない。
残されたのは、ひんやりとした沈黙だけだった。
***
レナは胸騒ぎがしていた。サラが校内にいない。
午前の授業のときは確かに隣に座っていたのに、午後から姿を見せなくなった。
教師は「体調不良で早退したのだろう」と言っていた。
けれど、そんな事をする子ではない。
胸の奥に重い靄が広がり、レナは嫌な予感を拭えなかった。
(どこに行ったの、サラ)
午後の授業が終わったあと。
帰り支度をする生徒たちのざわめきの中、廊下の片隅に――彼が立っていた。
銀髪、紫の瞳。白衣の裾を静かに揺らす姿。
オルフェ・クライド。
「……レナ」
呼び止める声は低く穏やか。
だが、彼女の背筋はひやりと強張った。
(オルフェと二人きりになるな。レオンがそう言ってた)
それでも足を止めたのは、聞きたいことがあったからだ。
「……オルフェ。サラ、知らない? 午後からいなくて……」
言い終える前に、彼が小さく首を傾けた。
「……話がある」
低い声。穏やかな調子。
なのに、拒否を許さない響きが混じっていた。
「ここじゃない。放課後に校舎裏に来て」
「……校舎裏? 何の話?」
微笑みは柔らかいのに、どこか冷たい。
「サラさんに関すること……かもね」
レナの瞳が大きく揺れる。
オルフェはそれだけ言って、踵を返した。
背中は静かに遠ざかるのに、廊下に残された空気だけが重く、レナは立ち尽くしていた。
***
夕暮れの校舎裏は、不気味なほど静かだった。
風はなく、誰もいない。
レナは校舎裏にやってきた。
先に来ていたのはオルフェだった。
紫の瞳が静かにレナを見つめた。
「探してるんでしょ? 君が探してる子なら、俺のところにいるよ」
低く、気だるげな声が空気を裂いた。
「今夜、来てほしい場所があってね」
示されたのは、学院外縁の旧研究棟。
かつて禁術の研究が行われ、今は立ち入り禁止区域に指定された場所だった。
(……罠だ)
レナは拳を強く握りしめる。
けれど──サラの名を出された瞬間、胸の奥が冷たく締め付けられていた。
「サラは……無事なの?」
掠れた声で問う。
オルフェは口の端をわずかに上げて、楽しげに答えた。
「今のところは。君が来ないなら……どうなるかは分からないけど」
一拍置き、紫の瞳が鋭さを帯びる。
「俺の研究に──協力してくれる?」
拒否を許さないような問いだった。
「……っ!」
レナの喉が震えた。息が詰まる。
だがオルフェはそれ以上、言葉を重ねない。
「待ってるよ。それじゃ、また」
背を向け、夕闇に溶け込むように歩き去っていく。
残されたレナは立ち尽くし、拳を握ったままその背中を見つめていた。
サラを助けなければならない。
だが、その先に待つのは、自分を狙う“罠”であることも分かっていた。
遠くから、そのやり取りを見ている影があった。
廊下の柱に寄りかかり、じっと視線を向けているその影にレナは気付かなかった。
***
学院の門を出ると、夜風が頬を撫でた。
吐いた息が白く揺れ、闇に溶けていく。
森の縁に向かう細道。昼間なら生徒の声で賑わう通りも、今は足音だけが響いていた。
靴底が砂利を踏むたびに、やけに大きな音に思える。
(……怖い)
その一歩ごとに、胸の奥が小さく悲鳴をあげる。
胸の奥で、何度も言葉が反響していた。
(私のせいだ……)
サラが巻き込まれたのも、狙われているのも、全部“血”のせい。
分かりきっていることだった。
(オルフェの狙いは、私……死ぬかもしれない。でも……私が行けば、サラには危害を加えないはず。誰にも言えない。一人で、行く。)
拳を握る。爪が掌に食い込むほどに。
恐怖はある。震えもある。けれど、それでも――
(……レオン、ごめん)
心の中で名を呼んだ。
約束を破るのは怖いのに、それでも……自分で選ばなければならない。
夜の森は、まるで彼女を呑み込むかのように暗く広がっていた。
それでも一歩ずつ、レナは進んだ。
森を抜けると、不意に視界が開けた。
そこに、時代から取り残されたような石造りの建物がぽつりと佇んでいた。
二階建てのはずの外観は、上階の半分以上が崩れ落ちている。
屋根は抜け落ち、壁には深い亀裂。だが、倒壊して然るべき姿が、なぜか“そのまま保たれている”。
建物全体を覆うように、無数のツタが絡みついていた。
幾重にも重なる緑の鎖は、まるで何かを“封じ込めている”かのように見える。
湿った空気が重たくのしかかり、ただそこに立つだけで呼吸がしづらいほどだった。
(……学院の研究室とは全然違う。ここが、オルフェさんの……)
胸が強く脈打つ。
足を一歩踏み出した瞬間、空気がびり、と震えた。
「レナ、ここで、何してるの」
不意に背後から声。
振り返ると、そこにはエリックが立っていた。




