第72話 似て非なる者
オルフェ・クライドは、午後の陽が沈みかける頃、ある街区に足を踏み入れていた。
空気が不自然に揺らぎ、そこに在るはずの結界が“意図的に”外されている。術式の痕跡はあるが、乱雑で、あまりに粗い。
オルフェは無言のまま小さく舌を打つ。
学院からの命により異変調査に来たが、既に“始まっていた”。
路地の先。腐臭と魔力の歪みに包まれた空間。
ぬめるような音を立てて、黒い影が蠢いている。
それは、魔物の“ようなもの”だった。
肉体の一部が人間の形を残し、他は爛れ、変質している。
「……また、こんな無様なものを」
オルフェの手が、すっと宙をなぞる。
魔術陣すら描かず、空気が一瞬で凍りつく。
彼の魔力は封印式のペンダントから静かに漏れ出し、地に淡い魔術構文を刻んだ。
──《灰の境界式》
発動と同時に、魔物が蠢いた。
三体。否、五体。
それぞれが異なる形に歪み、いびつな咆哮を上げる。
「……失敗作の見本市か。醜悪なだけだな」
魔物の一体が突進する。
瞬間、オルフェの足元に浮かぶ小さな魔法陣から、灰色の刃が三本、無音で射出される。
魔物の身体を貫いた刃は、魔力の核だけを削り取り、音もなく崩壊させた。
「魔力操作も分解も、粗雑すぎる。作り手の知能が知れるな」
もう一体が背後から跳びかかる。
だが、オルフェは振り返らない。
淡く震えるペンダントに指をかけ、右手を軽く振る。
──空間がねじれた。
魔物の頭部が、音もなく吹き飛んだ。
周囲に散った赤黒い魔力の残滓が、結晶のように光っていた。
魔石……いや、それは“赤魔石の模造品”――擬似的な血の核だった。
「やはり、“これ”が……」
足元の血肉の残骸を見下ろす。
(……この粒子構成。やはり、本物ではない。赤魔石の構成を真似た、雑な模造)
「君か」
ふと、空気の流れが変わった。
視線を上げた先、崩れかけた民家の屋根に男が立っていた。
──ザイラス・カイゼル。
狂信的な研究者。
生体錬成、模造魔石、キメラ製造……。
そのすべての“元凶”。
オルフェの瞳が、無表情のまま僅かに細められた。
(……こいつが、“あの赤魔石の模造”を作った男か)
静かに、しかし確実に怒りが形を成す。
「君か。僕の研究を、侮辱してくれたのは」
ペンダントが微かに震える。
その震えが、オルフェの内心と呼応しているようにさえ感じられた。
***
空気を裂くように、陽気な声が響いた。
「いや〜、やっぱ怖ぇわキミ!」
崩れかけた民家の屋根の上から、ザイラス・カイゼルが顔を覗かせる。相変わらず場違いな異国風の派手な服装である。
「俺の魔物ちゃん、見事にぐっちゃぐちゃ。ひとつ残らず使い物にならなくなっちゃった。いやぁ、お見事お見事!」
手を叩きながら笑うその顔に、悪びれた様子はない。オルフェは、無言のままその声に目を向けただけだった。瞳の奥に怒気もなく、ただ“興味を失った”という冷たい光。だがザイラスは構わず続けた。
「てかさ、学院ってやっぱ怖ぇやつ多いよね。キミもそうだけどさ……もう一人いたよ、金髪の男」
その言葉に、オルフェの瞳がわずかに動いた。
「ほら、公園で俺の可愛いマンティコアちゃんボコボコにしたやつ。金髪で、青い目で、冷たい顔の──あいつ、名前知らないけどさ」
レオンだ──オルフェはすぐに察したが、口には出さない。
「戦い方がね、えげつないのよ。ガンって来て、ズバッて斬って、ズドンって終わり。もうさぁ、何のロマンもないっていうか。でもまあ……あれは“完成形”ってやつか。怖ぇよ、あんなのが人間にいるとか」
ザイラスは芝居がかった動作で剣を振る真似をし、肩をすくめて見せた。
「で、キミは真逆。“観察して、解体して、必要なところだけを抜き取る”。芸術的っちゃ芸術的。うん、俺のツボだわ」
「くだらない話をする気はない」
その瞬間、“音”が消えた。
術式も詠唱もない。ただ、オルフェの右手がわずかに動いた。
《領域干渉:第零相》
重力と空気の流れが一変する。ザイラスの足元に描かれていた防御陣が一瞬で破壊された。
反応するより先に、上空から降り注ぐ“灰色の斬撃”。
空間が四重に重なり、斬撃は物理と魔力を両断して屋上を崩落させる。逃げる間もなく、ザイラスの袖が裂け、血が飛び散った。
「ッははっ……なかなか手荒だね、オルフェ・クライド君!」
だがザイラスは怯まない。
むしろ、血に濡れた指先で地をなぞりながら嬉々と声を上げる。
「君も見ただろう? 模造品とはいえ、“赤魔石の反応”を!」
崩れた階段を跳び越え、彼はまるで踊るように身を翻す。
手には血色の結晶──模造赤魔石。
だがその核には、明らかに“人間の魔力反応”が刻まれていた。
「僕はね……“どこまで普通の人間を赤魔石に変えられるか”を研究してる。血液の魔力変質、魂の符号化、融合。もうすぐ“完全な赤魔石”ができるんだよ」
その瞬間。
オルフェの周囲の空間が一瞬で蒸発した。
彼の魔力が“制御を逸脱しかけた”のだ。
「……くだらない」
オルフェの声が低く震える。
「普通の人間を材料にして何の意味がある。本物の赤魔石の構造すら理解していない貴様が……」
目の奥に、鋭く焼けつくような怒り。
ただの“研究者の表情”ではなかった。
「……下劣な模造品と一緒にするな。」
直後、結界を伴った円陣がオルフェの背後に展開する。
高度な数式魔術による十重の構造式。
即死級の結界収束爆撃。オルフェが「殺す意志を持った」時にしか使用しない破壊構文。
ザイラスがようやく顔を引き攣らせた。
「……おやおや、君にも、そんな顔ができるんだ」
「黙れ」
魔力が臨界に達する。
その刹那、空間が黒く裂け、ザイラスのいる領域ごと“消去”された。




