第70話 エリックの疑念
昼休みのEクラス教室は、いつも通りの賑やかさを取り戻していた。
だがそのざわめきの奥では、やはり“例の事件”の話題が止む気配はなかった。
レナは窓際の席で、持参したサンドイッチをかじっていた。その隣、菓子袋を手にしたエリックが、ひょいと視線を向けてくる。
「なあ、軍より早くキメラ倒したのって、やっぱレオンだろ。お前、居合わせてたんだよな?怪我は大丈夫か?」
素朴な問いかけに、レナは小さく頷いた。
「うん……。怪我はないよ」
「はー……」
エリックは感心したように頭を掻いた。
「怖い奴だと思ってたけどさ、キメラだとか伝説級のマンティコアまで相手にできるって、どうなってんだか。俺、よく今まで暗殺されなかったわ」
「……暗殺?」
レナがきょとんとする。エリックは慌てて手を振った。
「いやいや! 何でもない! ただの冗談! 俺、善良市民だし!」
レナはぽかんとした後、ふっと笑った。
「レオンもこれで一躍有名になったよね。軍のスカウトとか来るんじゃない?」
「来てたらしいぞ。けど、学院側が“うちの生徒なんで”って断ったって話だ。さすが学院、手放したくないってワケか。ま、当然だな。あの強さは。オルフェだって色々やらかしてるのに手放さねえもんな」
そう言って、エリックはお菓子をもうひとつ口に放り込む。咀嚼しながら、少しトーンを落として続けた。
「もう一つの噂、キメラ作った奴だっけ。……あれ、オルフェのことを皆が言ってるんだろ」
レナは顔を上げた。
「アイツはアイツで、誤解生むことが多いんだよな。……やってることも最低だが」
それを聞いて、レナは少しだけ、真剣な表情になる。
「……あの人は犯人じゃないよ。見たもん、犯人」
「……見た?」
「うん。派手な異国風の服の男の人だった。すっごい軽そうな人。……ぜんぜん、オルフェさんとは違った」
エリックはしばし沈黙し、肩をすくめた。
「だよなあ。あの男は……そういうの、作るには軽すぎる。あんな中途半端なもん、オルフェが作るはずないよ。めちゃくちゃ、変なとこで拘るからな」
「うん。……なんとなく、分かる気がするよ」
レナはそう言って、少しだけ微笑んだ。
その会話のすぐ外。
廊下の陰、誰にも気づかれない位置に、ひとつの気配があった。
オルフェ・クライド。
教室に背を向け、壁にもたれながら、閉じられた瞳をゆっくりと開く。
(……噂に惑わされない奴らが、まだ……いる)
それだけで、なぜか胸の奥が少しだけ静かになった気がした。空っぽだったはずの感情の隙間に、何かが微かに触れた。
だがそれを確かめることはせず、彼は静かに歩き去っていく。
***
午後の図書館は、静寂に包まれていた。
高い天井から差し込む光が、埃の粒を淡く照らし、古い本の匂いが空気を支配している。
レナは一人、窓際の席で本を読んでいた。
分厚い魔術理論書。慣れない専門用語に眉を寄せていたそのとき、斜め後ろからひょいと声がかかった。
「……その解釈、三行目から逆に読んだ方がいい」
驚いて振り返ると、そこには白衣の青年──オルフェが立っていた。
白銀の髪に、紫の瞳。無表情のまま、レナのページを指差している。
「……ありがとう」
そう答えたレナに、オルフェはしばし黙していたが、やがて低く問いかけた。
「……俺が怖くないのか?」
レナは一瞬、きょとんとした顔をしたあと、思い出したように微笑む。
「……噂のこと? 私は犯人、見てるから」
言いながら、本を閉じる。
表紙に手を添えて、柔らかく続けた。
「それに……見てなくても、何となく違う気がするよ。これは、感覚だけど」
オルフェはまばたきを一つしてから、言った。
「噂だけじゃない。……俺が君に接触している理由、分かっているだろう」
声色は変わらない。冷静なまま。
ただ、それがむしろ緊張感を孕んでいた。
「君の血が欲しい。……その血で研究がしたい。あの赤い魔力の流れを、構造として解き明かしたい。……君という現象の、解析がしたいんだ」
静かに、真っ直ぐに告げる。
そこには“人間的な線”を越えかけた、何かがあった。
レナは視線をそらさずに、しばらく黙っていた。
そして、ほんの少し困ったように、けれど柔らかく微笑んで言った。
「それは、怖いというより……困るかな」
「……困る?」
「うん。どれだけ研究熱心でも、渡せないものはあるから」
拒絶ではない。否定でもない。
ただ、静かに“線を引く”声だった。
オルフェはそれをじっと見つめていた。
その瞳の奥で、何かが一瞬だけ、揺らいだ。
「……そうか」
それだけを呟くと、彼は静かに背を向けた。
そして、再び誰もいない本棚の奥へと、白衣の裾を揺らして消えていった。
その後ろ姿は、不思議と、どこか寂しげだった。
***
学院の渡り廊下。
昼下がりの光が射し込む中、エリック・ハーヴィルは足を止めた。耳に飛び込んできたのは、聞き捨てならない会話だった。
「え? オルフェが? レナと……?」
「うん、時々話しかけてるみたいだよ」
ほんの些細な噂話。
だが、その瞬間、エリックの表情から笑みが消えた。
ゆっくりと踵を返し、廊下を歩き出す。
靴音が、妙に重く響いた。
(……マジかよ)
心の奥に沈んだ声が、波紋のように広がっていく。
(オルフェ・クライド。そもそもあいつは、人間に興味を持つような男じゃない。そんな奴が、“レナに興味を持った”なら……それは、ただの気まぐれで済む話じゃない)
知識、技術、規格外の魔術。
表向きの学院では理解されていないその力を、エリックは知っていた。
そして同時に──その異常さも。
(レナは普通の女の子だろ? オルフェみたいな異常者が目をつける理由なんて、本来あるはずがない)
そう思い込もうとした瞬間、脳裏に浮かんだのは冷たい青の瞳。
レオン。あれもまた、常軌を逸した存在だった。
(……レナが引き寄せてるのは、危険な狂人ばかりだ。俺の前提が間違ってる? レナは、本当に“普通”なのか? あいつは、何を隠してる?)
疑念と恐怖が胸をかすめる。
けれど同時に、それを振り払うように奥歯を噛み締めた。
(それでもあの笑顔が消えるのは、見たくない)
沈む夕陽の赤が、渡り廊下に長い影を伸ばす。
その影の中を、エリックは迷いを押し殺しながら歩いていった。




