第69話 プロメテウスの火
数日と経たぬうちに、噂は街を駆け巡っていた。
──あの公園に、キメラが現れた、と。
──マンティコアという伝説級の魔物まで暴れた、と。
そして何より、その“怪物たち”を相手に、軍よりも早く対処した者がいたという。
金髪碧眼の少年。
学院の制服を着た、まだ十代の青年。
名は知られていない。
だが、その戦いぶりは“人間とは思えなかった”と、目撃者の誰もが口を揃えた。
「……軍が来る前に、終わってたらしい」
「一撃で、キメラの首が飛んだって話だ」
「剣と魔術を両方使ってた……」
英雄譚のように語る者もいた。
けれど同時に、その“異質さ”に恐怖を口にする者もいた。
「でもさ、そもそも……そんな魔物、なんで街中に?」
「マンティコアなんて、自然発生するもんじゃないぞ」
「誰かが作ったんじゃないのか……?」
実際に現場で目撃されたのは、派手な異国風の服を着た軽薄そうな青年──ザイラスだった。
だが、その描写はあまりに“軽すぎた”。魔物を錬成し、禁術を操る者が、そんな軽口を叩くような人物であるはずがないと人々は勝手に決めつけた。
そして何より──戦闘直後、公園に別の青年が姿を現したという証言があった。
「なあ、聞いたか? キメラの死骸を触ってた銀髪のやつ……」
「魔石を“回収”してたって話だ。気味が悪い」
夕暮れの街に再び静寂が戻った頃、白銀の髪の学院生が、破砕された肉片の中から赤い魔石を取り出していたという。
誰も近づけない死骸に躊躇なく触れ、ぬめりの残る肉を平然と解剖し、砕けかけた核を静かに見つめていた。その姿は、戦いを終えた英雄とは別の意味で、人々に“異質な寒気”を与えた。
人々は勝手に“補完”し、真実を捻じ曲げた。疑念が生まれれば、それはやがて“名前”を伴って拡がっていく。
そして、ある一点に収束し始めた。
──あの銀髪の学院生が関わってるんじゃないか?
冷静で、感情の起伏がなく、ただ魔術だけを追い求める者。禁術に精通し、長く学院を休学していた。復学したばかりだというのに、誰とも打ち解けようとせず、“人間”より“魔術”に興味があると噂される青年。
オルフェ・クライド。
「魔術で怪物を作るなんて、あいつの趣味にぴったりじゃないか」と。
「……あいつなら、キメラくらい平気で組み立てるだろ」と。
根も葉もない。
証拠もない。
だが、“不気味な知性”は、いつも真っ先に疑われる。
そしてそれを否定する者は、誰もいなかった。
真実がどうであれ、噂はいつも最も孤独な者を標的にする。
***
昼下がりのSクラス教室では、高等術式の演習が一段落し、生徒たちは談笑や読書、各自の研究に時間を割いていた。
そんな中で、確実に広まっていたのが──あの“公園の件”だった。
「見た?あれ。マンティコアだよ、伝説級」
「軍より早く処理したって話。金髪の奴、名前出てないけど……アイツだろ、Sクラス」
ジーク・ヴァルフォアが、声を潜めつつも興奮気味に言う。
視線の先では、レオン・ヴァレントが教科書を無造作に閉じ、静かに席に腰掛けていた。その横顔は無表情で、会話にはまるで興味がないように見えた。
だが、その沈黙のせいで──逆に噂が加速する。
「……まあ、あいつならやりかねないよな」
ノア・シュタルクが囁く。
「剣術だけでも一級品なのに、あの魔力操作。軍でも通用するだろ」
キース・ローゼンベルクも続けた。
マリアン・アロイスは、レオンの金髪を一瞥し、どこか含みのある溜息を落とす。
「でも、それだけじゃ片付かないわよね。“あれ”を作ったのは誰かって話、聞いてる?」
わざとらしく誰かが囁く。
「……オルフェ、じゃないかってさ」
一瞬、空気が揺れた。
黒板の前。封印魔術の術式を書いていたオルフェ・クライドが、手を止めた。
その背で、囁きは続く。
「禁術マニアじゃん、あいつ」
「学院で死者が出たあの事故も……たしかオルフェが──」
バンッ!
術式具が机に叩きつけられた音が、教室に響いた。
レオンの指が、ぴくりとだけ動いた。顔は向けない。しかし、音の中心へと研ぎ澄まされた殺気が微かに走る。
全員が振り返る。
そこに立っていたのは、普段と変わらぬ制服姿のオルフェだった。だが、その瞳には、見たこともないほど冷たい怒気が宿っていた。
「……俺が?」
静かな声が、空気を切る。
「あんな粗雑な模倣体を、俺が作ったって?」
彼の声は低い。だがひとことごとに、教室の温度が下がっていく。
「構成が歪み、術式に連携の痕跡すらない。魔力の流れは未調整、血液因子も不純。しかも“ファウレスの血”とすら無縁の代物」
ジークもノアもキースも、誰も何も言えなかった。
マリアンでさえ口を閉ざす。
オルフェは、ゆっくりと手袋を外しながら、吐き捨てた。
「あんなまがいものと、俺を一緒にするな。」
レオンは、ほんの一瞬だけ視線を上げた。
だが、何も言わない。ただ静かに見つめるだけ。
指先に、微細な魔力が集まりはじめる。
ペンダントが震え、空気が緊張する。
「俺が作るなら──あんな下劣な獣じゃない」
静かな怒気が、教室の空気を刺す。
そして、眉をわずかにひそめて言い捨てた。
「……あの“派手な服”の男と、俺を一緒にするな。気分が悪い」
椅子がわずかに鳴る。レオンが腕を組み、視線を外した。
まるで──“当然だ”とでも言うように。
教室の誰もが、息を飲んだままだった。
皮肉でも怒号でもない。
だが確かに、それは天才魔術師の“侮辱に対する激昂”だった。
***
その夜、研究棟を青白い魔導灯が照らしていた。
周囲には瓶と書簡、干からびた触媒、乾いた魔法陣の残骸。
その中心に、オルフェは立っていた。
術式陣の線は幾重にも重ね描かれ、幾何学のように美しい。
赤い光脈がゆっくりと脈打ち、循環を始めている。
魔力濃度は規定値を越え、周囲の空気が震えた。
彼の目に宿るのは興奮でも期待でもない。
ただ、計算の完了を見届ける数学者の眼。
「……式は正しい。理論上は、死の境界を越えられる。」
呟きながら、彼は培養槽を見た。
透明な液体の中に浮かぶ“人型”
人間を模して組織と血管を人工生成した、肉体の模倣体。
皮膚には血が通い、まぶたは閉じている。
けれど魂のないその姿は、ただの器だ。
「偽物の核で“命”を語るな」
彼はザイラスを思い出して吐き捨てた。
あの男は命を模倣した。
自分は命の構造を理解しようとしている。
その違いを、誰にも分かってもらえない。
魔法陣が淡く光を帯びる。
中心に置かれた触媒体に、彼は掌をかざした。
術式構文を展開、位相を反転させ、死の座標をずらす。
時間そのものの記録点をねじ曲げ“過去の生”を現在へ召喚する。
「蘇れ」
空気が裂けた。
光が瞬き、血管が脈動する。
人工の心臓が、ほんの一瞬だけ鼓動した。
……しかし。
耳を澄ませば、それは鼓動ではなく魔力の震えだった。
肉体がわずかに動いたかと思えば、指先から異形の変化が走る。
皮膚がねじれ、骨がずれ、音もなく軋む。
人工の魂が存在を維持できず、崩壊していく。
「……やはり、これでは“魂”は呼べないか。」
オルフェはため息ひとつ。
次の瞬間、掌を掲げて無詠唱の魔法を放つ。
淡い紫の光線が走り、異形の肉体は音もなく沈黙した。
魔法陣の光が消え、部屋には再び静寂が戻る。
焦げた匂いも血の匂いも残らない。
すべては滅菌処理された実験空間の中、完璧に計算されていた。
ただ、床に残った魔法陣だけが、静かに“死”を記録している。
彼はその上に立ち、ぼそりと呟いた。
「……本物の“命”とは、何だ。身体も、血も、魂も、式に還元できるはずだ。なのに、なぜ再現できない。」
静かな声。
だがその指先は、微かに震えていた。
その震えさえも、彼は観察し、計測しようとする。
そして最後に、己の胸に手を当てた。
「……まるで、僕が“感じている”みたいじゃないか。」
笑いとも溜息ともつかぬ声が、実験室に消えていった。




