第67話 偽物の赤魔石
噴き出した瘴気が風に散り、異形の骸が地面に沈黙していた。レオンは無言のまま、倒れたキメラの胸部に視線を落とす。
──それは、そこにあってはならないものだった。
裂かれた肉の奥、骨と臓腑の狭間。心臓のあった場所に、赤く濁った“魔石”が埋め込まれていた。
「……赤魔石……?」
低く呟いたその声には、わずかな戸惑いが混じる。
(ありえない。こんなものが……こんな場所に)
レオンは剣の先で、その魔石を軽く突いた。触れた刃の先に、びり、と鈍い反応が走る。
“それ”は、確かに魔力を持っていた。だが――異常だった。
(濁っている。澱んでしまってる。これは、粗悪品だ。こんな物を作る奴がいるのか……)
過去に、魔術用品店で見た本物の赤魔石とは明らかに違う。偽物だ。魔力の流れが歪で、内部の魔素が“腐っている”。ただの模造品ではない。もっと悪質な、何かだった。
「……気持ちが悪いな」
呟くと、レオンはその赤魔石を靴で踏み砕いた。パリン、と乾いた破砕音がする。濁った光が一瞬、虚空に漏れたかと思うと、すぐに闇へと沈む。
不意に、場違いな音が響いた。
パチン、パチン……
拍手の音。
「わあ、すっごいね君!
ほんと、あれ倒しちゃうなんてさぁ!」
陽気な声が、街の静寂を踏みつけるように鳴り響いた。
レオンが剣を構え直すまでもなく、声の主は自ら姿を現した。
公園の柵の上。
ラフな格好をした青年が、笑顔のまま足をぶらつかせて座っていた。
絹でも麻でもない、異国の織物。派手な毒々しい幾何学模様柄のシャツに、ほつれた藍染めの厚布のズボン。この国の誰もが二度見するほど場違いな装い。
だが、顔立ちは妙に整っている。
切れ長の一重に通った鼻筋、笑みを浮かべる口元。
華やかさとは違う、どこか神経質な鋭さを持ちながら、派手な服装がすべてを台無しにしている。
その“ちぐはぐさ”こそが異様で、目を逸らすほどの不快感と、逆に視線を釘づけにする奇妙な魅力を放っていた。
「……誰だ」
レオンの問いに、青年はまるで無関心な様子で肩をすくめる。
「俺?ああ、名乗った方がいい?……ま、いいか。ザイラス・カイゼル。よろしく」
青年はひらひらと手を振った。場違いな明るさだが、その目の奥には笑みとは別の冷たい光が宿っている。
「今の“アレ”さ、俺が作ったんだ。人間と魔物を錬成した“キメラ”。でもさ、やっぱ失敗だね〜。人間の自我って邪魔くさいわ。暴走しちゃったのも、そのせいだろうな〜」
言葉の端々に、罪悪感の影は欠片もなかった。まるで、ペットが檻を壊して逃げ出したのを笑い話にしているかのような軽さ。
「君さ。すげえじゃん。びっくりしちゃった。あ、そうだ。赤魔石も見たんだっけ? あれも俺が作ったんだ。工夫したんだけど……濁っちゃって、ハズレだったな。まあ、あれで三人分だし」
指で軽く「三」と数えるように掲げて、愉快そうに肩を竦める。
「三つの命を詰め込んで、あのサイズ! 圧縮率、なかなか良かったと思わない? 特殊な血要らないし、普通の人間で作れるしさ、コスパ良いと思うんだよな〜」
レオンの顔から、すっと色が抜けた。
そこに残ったのは、怒りでも憎しみでもない。ただ──極寒の湖のような、底の見えない冷たさ。
(……こいつは、“壊していい”)
決断は静かだった。
ザイラスはそれすらも楽しそうに見守りながら、にやりと笑った。
「うわ〜、怖っ。そういう顔、いいね。そんな君に……こっちはどうかな?」
ザイラスが無邪気な笑みと共に指を鳴らした。重い地響きが、公園の奥から響く。夕闇の向こうから現れたのは、一頭の異形──マンティコアだった。
獅子のようにたくましい胴体。背には蝙蝠のような巨大な翼。尾は蠍そのもの、太く蠢き、先端には黒く輝く毒針が揺れている。目は真紅に濁り、狂暴な光を放ち、口からは泡を混じえた唸り声と、鋭い牙が剥き出しになっていた。
「っ……なに、あれ……」
レオンが僅かに背後のレナに視線をずらす。レナは思わず後退していた。それは“理屈ではない恐怖”──伝説に語られる怪物を前にした、本能そのものだった。
レオンは微動だにしなかった。金髪が風に揺れ、碧眼は冷え切ったままだ。
「伝説級の魔物……いや、出来損ないの偽物だな」
レオンが低く呟く。
公園にいた人々はすでに悲鳴すら上げられなくなっていた。母親は幼子を抱き締めたまま、その場に膝をつく。男は顔面から血の気を失い、石像のように固まっている。
誰もが声を殺し、息をすることさえためらっていた。瘴気が吹き抜けるたび、肺に鉛を流し込まれたかのように呼吸が重くなる。
レオンは剣を構え、静かに前へ進んだ。その歩みはまるで、何の感情も持たぬ処刑人のようだった。マンティコアが唸りを上げた。翼が風を巻き起こし、石畳が抉れる。
次の瞬間、地面を蹴って突進する。
「ッ!」
レオンが刃を弾き上げ、真正面から牙を受け止める。金属と肉のぶつかる轟音。レオンの表情は変わらなかった。冷徹な視線で、獣の首筋を見つめる。
(骨が太すぎる。弱点は……)
剣を滑らせ、喉の下に斬り込もうとするが、尾が襲いかかる。毒針が空を裂き、レオンの横顔をかすめた。
(あの尾が厄介だ)
そう判断した瞬間、彼は身をひるがえし、尾を逆手にいなしながら剣で斬りつける。
──が、刃が深く通らない。
硬質な鱗が、防壁のように打撃を受け止めたのだ。
「硬いな……この構造、自然じゃない。補強されてる……」
レオンの冷静な分析が続く。その間にも、マンティコアは地を蹴り、羽ばたき、牙と爪で暴れ狂う。
木々がなぎ倒され、噴水が割れ、水が空へと弾けた。
石畳が粉砕され、宙に舞う瓦礫の雨の中、それは起きた。
マンティコアの眼が、レナを捉えたのだ。
気づいたときには、獣が方向を変え、一直線にレナへと飛びかかっていた。
その瞬間、黒い衝撃波のような斬撃が、空気ごと獣の進路を断ち切った。
レオンだった。
その瞳から、ようやく“感情”が現れた。
それは怒りでも、焦りでもない。殺意だった。
目の前で自分の守るべき者に牙を向けた存在を、赦す意思など最初からなかった。
「俺の前で、手ェ出してんじゃねぇよ」
低く冷えきった声とともに、剣が振り抜かれる。
さっきまで弾かれていた鱗が、今度は容易く断ち割られた。それは斬撃の速度や角度の問題ではない。感情そのものが魔力へと変質し、鱗の補強を凌駕する“質”へと変わったのだ。
次の瞬間、レオンは地を蹴った。剣が唸りを上げ、獣の前脚を叩き斬る。そのまま跳躍、翼の根元を斬り裂き、蠍の尾を掴んで捻り潰した。
断末魔のような悲鳴が、公園中に響き渡る。
マンティコアは、地面を這うようにして後退し、呼吸すら乱れていた。背からは黒い血が噴き出し、四肢は震え、視線はもはや恐怖に塗れている。
「うへえ、あいつ強すぎるじゃん。……やっば」
柵の上のザイラスが口笛を鳴らす。レオンが追撃しようとした瞬間、マンティコアの身体が光に包まれ、転移の術式が発動する。魔力の糸が地面に走り、刻印が淡く浮かび上がる。
「学院のSクラスか?俺がいた時はザコばっかだったじゃん。最近の学院にしちゃあ、いい人材集めてんなあ」
光の中でザイラスは片手を振った。
「じゃあね! 次はもっと強いマンティコア作ってくるから! 楽しみにしててねー!」
ふざけたような調子のまま、術式は収束し、ザイラスとマンティコアの姿は掻き消えた。
──静寂が戻った。ただ、空気の匂いだけが違っていた。風に漂うのは、血と、硝煙と、そして……レオンの怒気の残滓。
誰も、声を出せなかった。
目撃者たちは恐怖で言葉を失い、レナはただ、レオンの背を見つめるしかなかった。




