第66話 クレープ×デート+孤高の騎士
甘い香りが漂うクレープ屋前の小さな丸椅子に並んで腰掛ける。焼きたてのクレープを受け取ったレナは、目を輝かせて口元をほころばせた。
「ん……これ、すごく美味しい……!」
さくっ、もちっ、とした音を立てて頬張るレナの横で、レオンは肩を落とし気味に、しかしどこか安心したような表情でそれを見ていた。
「お前、本当に甘いの好きだな」
「好き。大好き。疲れが飛ぶよ。レオンも……ねえ、ちょっと食べてみる?」
そう言って、レナは自分のクレープを持ち上げる。
「はい、あーん」
笑顔のまま、レオンの方に差し出した。
レオンは明らかに一瞬、固まった。
「……あ?」
「あーん」
レナは悪気など一切ない純粋な瞳で、もう一度言った。レオンは、周囲の視線が気になるでもなく、むしろ戸惑いのほうが大きいようだった。
「……お前なあ……」
そう言いながらも、彼はほんのわずかに表情を崩し、結局そのまま小さく口を開いた。レナが差し出したクレープの端を咥え、ゆっくりと咀嚼する。
「……甘いな」
「でしょ?美味しいよね!」
レナは嬉しそうに頷いた。レオンは小さく息を吐き、それから手元のもう一つのクレープを少しだけレナに差し出した。
「……こっちも食べるか?」
「え、いいの?」
「甘さ控えめだ。お前のはちょっと……味が濃すぎる」
「そう?でもありがと、もらうね」
クレープを受け取ったレナが、またぱくりと口に運ぶ。その頬には、どこまでも素直な幸福の色が滲んでいた。
***
──その様子を、街の裏手からじっと見つめるもうひとりの影がいた。
石壁の陰。記録魔、オルフェ・クライド。
革表紙の観察ノートに、静かに記されていく。
※ 観察対象A:あーん……とは、給餌の意図か?
→ 目的:共有・肯定・親密化。無防備に分類。
※観察対象B:拒否せず咀嚼。拒絶反応なし。
→ 通常の精神防衛反応が見られない。
→ 反応:微笑? 緊張解除、視線ソフト化。
一文字、一文字と、観察は冷静に続く。しかしその裏で、別の記録には書かれない“感情”が、オルフェの中に芽吹き始めていた。
(……この女の子は、何をしているんだ?)
無自覚に、人を動かす。
ただの笑顔で、あの冷たい男を、あの殺すことにためらいのない存在を、変えていた。
***
沈む夕陽が、長く伸びた影を絡ませていた。レナは、青魔石の入った買い物袋を持って、隣を歩くレオンの横顔をそっと見上げる。いつもより、少しだけ柔らかい表情をしていた。
「……レオン、今日はありがとう。塔からの見晴らし、すごく綺麗だった。それに、クレープも、青魔石も買ってもらって……」
レナが口にすると、彼は視線を向けぬまま答えた。
「別に……礼を言うことじゃない。俺が勝手にやってることだ。青魔石、使い終わったらまた言え。補充するから」
その声はいつも通りのそっけなさだったが、レナには、ほんのわずかな“照れ”の揺らぎが聞き取れた。二人は夕暮れの公園の前を通りかかる。通りには人の気配がまだ多い。
──そのときだった。
大気を裂く轟音。地面が揺れ、空気が震える。
何かが、空から“落ちた”。
「……え……?」
レナは思わず立ち止まり、振り返る。
公園の花壇と噴水のある広場の中央に、それはいた。
人のような上半身に、猛禽の翼、獣の脚──異形の“塊”だった。角と牙がねじれたように生え、全身から紫がかった瘴気をまき散らしている。
まるで、複数の生物を無理やり繋ぎ合わせたかのような──“キメラ”が二体いた。レナはすぐに新聞記事のことを思い出した。
「……なんで、こんな街中に……?」
呟いた瞬間だった。
「レナ、下がってろ」
その声がしたときには、レオンはすでに──レナの前に立っていた。
買い物袋が、地面に転がり落ちる。
彼の動きは、考えるよりも先にあった。
「っ……!」
レナは息を呑む。
レオンは無言のまま、半歩、彼女の前へと出る。制服の裾が風に揺れ、金の髪が斜陽を反射して光る。右手は、剣の柄へ。その顔には、感情という名のすべてが消えていた。無駄がない。恐れも迷いも、ためらいさえもない。まるで──最初から、そこに立つことが“定め”だったかのように。
そして彼は、静かに歩を進めた。広場とレナの間に、自分の身体を滑り込ませるように。
「……作られた魔獣か。魔術式が混じってるが、雑だな。」
レオンの低い声が、獣の唸りのように響く。目の前のキメラがレオンに気づき、唸り声を上げた。
刹那、澄んだ金属音が、街の空気を切り裂く。レオンが剣を抜いた。夕陽の下、斜めに伸びた影の中で。その姿はまるで──戦場に立つ騎士のようだった。
***
剣が抜かれると同時に、空気が変わった。レオンの碧眼はどこまでも冷たい。氷の底に沈んだような光は、激情も、怒りもない。ただ“排除”のための光だ。
「……そこから動くなよ」
背後のレナに向けたそれだけを最後に、レオンはキメラへと向き直った。
次の瞬間、斬撃。
誰も、その動きを“見た”とは思えなかった。黒い制服の裾がひるがえったその一閃で、最初のキメラの首が──落ちた。遅れて地面に倒れる巨体。紫の瘴気が噴き出す中、レオンは一歩も退かず、血の飛沫を払いもせず立っていた。
「……速すぎる……」
公園の遠く、逃げ遅れた数人の市民が、口元を押さえて立ち尽くしていた。悲鳴すら、喉に詰まる。
「人間……なのか、あれ……」
ざわめきが走る。だが、そのざわめきも二撃目で凍りついた。レオンは振り返りもせず、二体目のキメラへと接近していた。剣を構えない。キメラが鋭い爪を振り下ろす。だがそれは──“そこにいた”はずの少年の残像だった。
次の瞬間、レオンはキメラの背後にいた。地面が“ずるり”と赤黒く染まる。剣を、背骨ごと内側から引き裂いていた。キメラは喉の奥で泡を吹き、震えるように仰け反る。
レオンは光のない目で、淡々とそれを見下ろしていた。まるで、虫でも踏み潰すような無機質な視線だった。
「こんな物が、研究の成果かよ」
その言葉と共に、剣を横に払う。肉が裂け、骨が砕け、血が霧のように舞う。公園にはただ一人、血の霧に包まれた少年が立っていた。剣から滴る赤黒い血が石畳を濡らしている。
あまりにも、静かだった。
そこにあったのは、英雄の姿ではない。
死を当然とする者の姿だ。
「……やばい……あの男、魔物より……」
「なんだよ、あいつ……人間じゃ……ない……」
立ち止まっていた目撃者たちが、後ずさる。レオンの碧眼が、ふとそちらを向くと、彼らは本能的に“目を逸らした”。命を助けられたはずなのに、誰もが恐怖を滲ませている。
目が合っては、いけない。
そう思わせる“何か”が、レオンの中にあった。
彼の周囲だけが異質で、彼だけが、この世界に“属していない”。
彼は守ったのではない。
“処理した”のだ。
自分にとって不要な危険因子を。
レナが見守るなか、レオンは静かに剣を収めた。
血の滴る音だけが、響いていた。




