第65話 クレープ×デート+尾行つき
その日、学院の授業は昼前に終わった。早めの放課後になった教室には、ざわめきが残っていた。
机を動かす音や椅子を引く音、あちこちで交わされるお喋りと笑い声の中に、ひときわ異質な沈黙が落ちる。
「……ああ、また来たんだ」
窓辺に座っていたサラが、溜息交じりに呟いた。
廊下の向こうからゆっくりと近づいてくる足音。
誰が来たのか、聞かずとも分かる。
その足音には、無駄がなく、静かすぎて、怖いほどに整っていた。
教室のドアが開く。
金色の髪が、陽に淡く照らされる。
白いシャツの襟元をゆるく開いたまま、レオンが無言のまま歩く。
Eクラスの空気が、一瞬で変わる。
さっきまで騒がしかった教室が、まるで何かを飲み込んだように、しんと静まり返る。
(ほんとに毎日来てるなぁ……)
サラは教室の隅からその姿を見つめながら、内心でぼやいた。少し前までは、こんなことなかったはずだ。
だがここ最近、レオンはほぼ毎日Eクラスに姿を現している。レナを迎えに。誰に断るでもなく、当然のように。
視線を感じて、エリックが立ち上がる。
レオンの視線と、真正面からぶつかる。
互いに一言も発さない。
けれど空気が軋んで、教室がわずかに緊張に染まる。
(今日も……睨み合い)
サラは呆れ混じりにそう思いながらも、どこかその光景に目が離せなかった。
あの二人が言葉で争うことはない。ただ静かに、互いを値踏みするように視るだけだ。
レナはというと──
「あ……レオン……また、来てたんだ……」
教室の入口で足を止めたまま、困ったように眉を寄せている。
聞くところによれば、彼女は何度かこう頼んでいるらしい。
「Eクラスに来ると目立つから、校門で待っててくれない?」
だが、それが守られたことは、一度もない。
堂々と、誰の教室でも自分の領域のように歩き、レナに手を差し伸べて、連れていく。
(あーあ、ほんとに堂々としてるというか……)
サラは唇を噛みながらも、どこか諦めにも似た感情でレナを見送った。
教室のざわめきが、レオンの背中が遠ざかると同時に、また少しずつ戻っていく。
その後ろ姿を、エリックがじっと見送っていた。
笑ってはいるが、その目は冷たかった。
そして、レナはその視線にも気づかないまま、レオンの隣を歩いていった。
***
街の食堂で昼食を済ませた後、レオンはふいに言った。
「今日はまだ昼過ぎだ。……少し高いけど、街の端の塔に行こう。見晴らしがいいんだ」
彼の言葉に導かれるようにして、二人は高台の塔へと向かった。
螺旋階段を上りきり、最上階の見晴らし台へ辿り着くと、眼前に街の全景が広がった。
「……すごい」
レナの口から、自然に声が漏れた。
瓦屋根が連なる住宅街。遠くに伸びる大通り。封鎖された焼け跡。
すべてが小さな箱庭のように見える。
風が静かに吹き抜け、レナの赤い髪を揺らした。
「……ここにいたら、平和に見えるのにね。また街の結界が壊れて魔物が来たらどうしよう」
ふと零れた言葉は、不安そのものだった。
風に溶けて、空へと消えていく。
レオンは手すりに背を預け、空を仰いだまま、淡々と答えた。
「心配しなくても、俺が倒すよ」
それはまるで「明日は晴れる」とでも言うように、軽く、揺るぎがなかった。
「レオンは怖いって思うことないの?」
彼女がそう問うと、レオンはレナに視線を向けた。
その瞳は、いつも通り穏やかだった。けれど、その奥底に見えるのは、どこか冷えた水面のような感情のなさだ。
「俺が?──俺が怖いのは、レナが離れることだけかな」
レナの目がわずかに見開かれる。
その言葉は甘いはずなのに、どこか冷たくも感じられた。
「結界が壊されたら張り替えればいい。結界なんて、壊されるためにあるようなものだろ」
あまりにも事実に即した会話だった。
その言葉には、人の命への重みは欠けていた。
レナは眉を寄せ、口を開く。
「じゃあ……そのときは、街の人たちを私が誘導できるようになりたいな」
手伝いたい。自分にできることをしたい。
そう思っての言葉だった。だが返ってきたのは──
「レナが死ななければ、それでいい」
その一言に、レナは目を見開いた。
彼の横顔は変わらず穏やかで、まるでそれが当然だと言わんばかりだった。
「……そんなの、私だけ生きてても……」
言いかけた言葉は、青い瞳の鋭い光に射すくめられ、途中で途切れた。
「俺にとっては、そうじゃないよ」
レオンは短く、断言する。
風がまた吹き抜ける。
レナは何も言えず、ただ黙って街を見下ろした。
眼下には、誰かの家。誰かの思い出。誰かの命。
けれど今、この塔の上で見つめられているのは──
“レナ”ただ一人だった。
風が再び吹き抜け、塔の上の静寂をさらっていった。
言葉を交わすことなく並んで立っていた二人は、やがて階段を下りた。
***
塔を離れて、街へと戻ってきた。夕暮れの街は、学院とは違う賑わいを見せていた。石畳の通りには小さな露店や菓子屋が立ち並び、焼き菓子の甘い香りが風に混じって漂ってくる。
レナは、レオンと並んで歩いていた。少しだけ距離はあるが、視線を向ければ、すぐ隣に彼の横顔がある。ふと、彼が低く言った。
「……そういえば最近、オルフェがお前を見てる」
「ええ……?気づかなかった」
レナが驚いたように振り向くと、レオンは前を向いたまま、淡々と続けた。
「研究材料にするつもりだろう。あいつ、そういう目をしてた。人気のない場所には行くな。夜道も、ひとりで歩くな」
それは、忠告というより、命令に近かった。言い方も態度も強引で、ついレナは口を尖らせた。
「……段々と保護者みたいになってきてるよ」
「当たり前だ。お前に何かあったら困る」
真面目な口調で即答されて、レナは少しだけ言葉を失った。
そこまで真剣に言われるとは思わなかったのだ。一瞬、視線が交差する。だがレオンはそのまま視線をそらし、歩調を崩さない。
「魔術用品店に行くんだろ? 青魔石が欲しいって言ってたな。……買ってやるよ」
「えっ、白だけ買う予定なんだけど……」
「青も持ってた方がいい。万が一のとき安心だろ」
レナは過保護すぎると思いつつも、その気持ちが嬉しかった。
──そのときだった。
レナの目に、通りの角にあるクレープ屋が飛び込んできた。
焼きたての甘い匂いに、表情がふわりと和らぐ。
「あっ、クレープ食べたい」
声を弾ませて振り向いたレナに、レオンはぴたりと足を止めた。
「……お前、昼休みにもエリックやサラと甘いもの食べてただろ」
「……えっ、見てたの!?あれはちょっとだけだったし……!」
レナが慌てて弁明すると、レオンは小さく溜息をついた。
「……まったく」
そう呟くと、レオンは無言のまま方向を変え、クレープ屋のほうへ歩き出す。
***
人通りの多い街角。
石畳の上を通り過ぎる声や靴音の喧騒の中で、ただひとり静かに立つ青年がいた。白銀の髪、無表情の紫の瞳。左手には、革張りの観察ノート。右手には黒鉄の細筆ペン。オルフェ・クライドだった。
彼の視線の先、通りの向こうで、レオンとレナが並んで歩いていた。無防備な笑顔を浮かべるレナと、それを真正面からは見ないまま、ほんのわずかに視線を落として応じるレオンがいた。
彼らの距離は、寄り添うでもなく、離れすぎてもいない。それでいて、見ている者に強い“親密さ”の印象を残す。
(……何だ、あれは)
オルフェは瞬きをせずに見つめ、筆を走らせる。
観測対象A:表情に強い弛緩/防御反応なし/笑顔。
観察対象B:通常よりも眉間の緊張が弱く、声量も抑制傾向。
レオンがゆっくりと歩調を合わせ、レナの声に反応するように動く。決して、命令ではない。かといって、強引な引き寄せでもない。まるで、“彼女に従っている”かのような自然さだった。
(……服従? あの男が? いや、違う)
そう結論付けながらも、視界の中で繰り返される“矛盾”が、記録の邪魔をしてくる。レナが何かを指さし、レオンが苦笑のような表情を見せながら、その方向に歩いていく。
(甘味屋……?)
クレープを受け取るレオンの仕草が妙に丁寧で、レナが嬉しそうに笑うと、彼の肩の力がほんの少し抜けたように見えた。
観察対象B:口角の上昇(自覚なし)/眉間の緊張解除。
観測対象Aへの接触:命令・拘束・保護の意図なし。
代替:反射的な“応答”。
(……これは、いったい何だ?)
ファウレスの“血”が目当てではないのか?
通常なら、利用・掌握・管理すべき高価値対象。
だが今のレオンは、魔術資源を前にして“殺さず、支配もせず”、ただ隣を歩いている。
(血は利用すべきものだ。価値は“解析”にある。守るなど、資源の浪費にすぎない)
オルフェの手が、一瞬だけ止まった。筆先が浮く。計算された観察記録が、一行分だけ空白になる。“理解できない”という感覚が、音もなく心の奥に染み込んでくる。
それはオルフェにとって、もっとも忌むべき事態だった。
すべての事象には原因と結果があり、思考すれば理解できる──そう信じてきた。
なのに今、目の前の光景だけが、公式通りに並ばない。
→ 記録:観察対象間に予測外の情動共有がある可能性
→ 要再分析/接触観察優先度上昇
ページをめくる手が、少しだけ速くなった。
それでも、記録では追いつかないものがある。
(……理解不能)
それが“感情”なのだと、この時の彼はまだ、知らなかった。




