第61話 触れたら殺す
屋上には、風の音と遠くの鐘の音だけが響いていた。レナは手すりに寄りかかりながら、何度もため息をついていた。
そこに扉が開く音。振り返らなくても、誰かは分かっていた。
「ここにいると思った」
彼はいつも通りの口調で言って、隣に立った。手すりに肘をかけ、レナと同じように空を見上げる。
しばしの沈黙の後、レナは呟いた。
「私の血のこと、気付かれてる」
その言葉に、レオンは眉を動かすこともなく答えた。
「オルフェか」
レナは小さく頷いた。
「うん。図書館で会って、話したんだ」
「やっぱりな。洞窟の結界を破ったのも、アイツだ。あの時、お前の戦いをどこかで見ていたんだろう」
レオンの声は冷静だった。まるで、すでに全てを計算済みであるかのような響きだった。
「上には報告しないって言ってたけど…」
レナの声はかすかに揺れていた。
「アイツの目的は“管理”じゃない。研究だ。ファウレスの血を、どう利用するか。つまり、お前自身を素材にするつもりだ」
「……」
レナはうつむき、指先を握る。
「お前、俺が渡した鍵はまだ持ってるよな?」
唐突にレオンがそう言い、レナははっと顔を上げた。
「うん、持ってる……」
「嫌じゃないなら、暫く身につけておけ。あの男、動きが早い。次の仕掛けももう始まってるかもしれない」
風が吹き抜け、レナの髪がふわりと揺れた。胸の奥に積もる不安を、風があおっていくようだった。
その時、レオンの手がそっと伸び、レナの頭を軽く撫でた。
「心配するなよ。俺がいるから」
その言葉は、いつもの彼らしく、少しだけ乱暴で、だけど確かにあたたかかった。
レナは目を閉じて、小さく頷いた。
***
中庭の片隅。午後の陽が陰り、レンガ敷きの道に長い影が伸びていた。人気のないその場所に、レオンは立っていた。壁に寄りかかりながら、黙って誰かを待つように。
足音が近づいた。
「……用かい?」
レオンの前に現れたのは、オルフェ・クライドだった。彼の瞳はレオンをまるで観察対象のように見つめている。レオンがここに来ることを予想していたかのように微笑んだ。
「気味の悪い笑い方だな」
「それは失礼。感情を込めるのは、苦手でね。」
「さっき、レナと話してただろ。図書館で」
オルフェの表情は変わらなかった。
「ふぅん……彼女、報告したんだ。レナさんはとてもいい素材だと思う。見ていて飽きない」
レオンの顔から感情がすっと消えた。
「──実験材料のつもりか?」
「違うよ。壊したくはない。ちゃんと手元で、きれいに保管したい」
まるで陶器でも語るような声でオルフェは言う。
その口ぶりに、レオンの中の警戒と殺意がゆっくりと膨らんだ。
「──お前、自分が異常だと気づいてるか?」
「うん、もちろん。気づいてないとでも思った?」
そう言って、柔らかな笑みを向ける。無害な顔をして、どこまでも純粋に残酷な男。それが、オルフェ・クライドだった。
レオンはゆっくりと一歩前へ出る。
「──あいつに、二度と近づくな」
「あれ、そういうことを言う関係なんだっけ?恋人同士?それとも──所有者?」
「……レナには、俺がついてる。お前の研究材料にはさせない。手を伸ばしたら殺す。それだけだ」
「……」
一瞬、風が吹いた。木々がざわめき、空気の温度が下がる。
オルフェは笑わなかった。ただ、淡々とした声で返す。
「忠告はありがたく受け取っておく。でも、俺は“観察”してるだけだよ。何もしなければ、何も起こらない」
「……それはお前じゃなくて、俺が決める」
レオンはそう言って、壁から背を離す。
「次はないと思え。レナに近づくなら──俺は躊躇わない」
そう言い残して、レオンは去っていった。オルフェはその背を見つめる。唇に浮かんだのは、愉悦と興味が入り混じった、わずかな笑みだった。
***
中庭を離れて歩くレオンの内心は、外見の冷静さとは裏腹に、荒れていた。心の奥で波打つ何かが、音を立てていた。
(オルフェは、レナを“見ていた”)
それが許せなかった。まるで観察対象のように冷たい目で、レナの中にある“何か”を見透かしていた。
(オルフェ・クライド──あいつは黙って、分析して、誰かを道具にする側の人間)
レナをそういう目で見られることが、何よりも許せなかった。
(レナは……俺のものだ)
言葉にはしない。口に出すには、あまりにも独占的すぎる。だが、あの森での出来事は心に強く残っている。彼女の傷も、秘密も、自分が背負うと決めた。
(だから誰にも触れさせない。あいつにだけは、渡さない)
冷たく吹き抜ける風の中で、レオンの瞳は戦場と変わらぬ鋭さを湛えていた。
***
授業を終えたオルフェは、人気のない廊下の一角で、何気ないふりをして学院中庭の様子を見下ろしていた。
地上では、レオン・ヴァレントがゆったりとした足取りで歩いている。向かう先には、例の少女、レナ・ファリスの姿。
(またか)
何度目かもわからない。レオンは日常のようにEクラスに足を向ける。まるでそれが“当たり前”であるかのように自然に。かつてSクラスに在籍していたエリックが、レナと親しく話している姿も見える。それをレオンは特に咎める様子もなく、ただ冷たい視線を横目に流していた。
(不可解だな)
魔竜の森。あの場所で“何か”が起きていた痕跡。消し去られた魔術痕。人為的に抹消された気配。高度で正確な処理。──やったのは、あいつだ。あいつ以外にできるわけがない。
(なぜそんなことを?)
レナ・ファリスが、ファウレス家の血を引いていることは、もう確信に変わっていた。血の魔力、魔術の性質、そして反応。その価値は計り知れない。ならば、レオンがあの少女に近づく理由は明白だ。
(利用するため。そうだろう?)
だが──あまりに“自然すぎる”。
あの男にとって、人間はコマのような存在であるはずだ。鋭く、冷たく、目的のためなら平気で他人を切り捨てる。そういう“類”の人間。
なのに──
(あの仮面が、あの子の前だけ綻んでる)
あれは、何だ?なぜ“怒り”や“野心”ではなく、あんな曖昧な眼をする?
オルフェは眉を寄せる。
(分からない)
理屈では整理できるはずのことが、感情の輪郭を掴もうとすると霧のように曖昧になる。
(あいつは──本当に、利用するためなのか?それとも何らかの感情……)
その思考の先を、オルフェはわざと止めた。
(感情、ね……俺にはよく分からないものだ)
口の端だけで笑う。
(それがどう作用するか。しばらく見させてもらおう)
彼の瞳に、一瞬だけレナが映った。
小さな背中。柔らかな表情。無力に見えて、時折見せる強さ。理不尽に耐える、あの“目”。
(──やっぱり、研究する価値はある)
そう思った瞬間、オルフェの中に微かな興奮が走った。




