第53話 オルフェ・クライド
オルフェ・クライドが教室の扉を開けると、空気が変わった。
いつも通り、空調の効いた魔術制御空間。カリグレア魔術学院、Sクラスに久しぶりに戻ってきた。
静かな空間の中、いくつかの視線がこちらを刺すように突き刺さる。オルフェはそのすべてを無視した。
(変わらないな、この場所も。替わるのは生徒だけだ)
事故の件を、誰も口にはしない。けれど、何人かは明らかに身構えていた。
その中に──見慣れぬ顔があった。
金髪、碧眼。肩にかかる短髪。
(……ああ、新入りか。俺がいない間に変なのが入ったもんだ)
けれど、数秒後。オルフェは眉をわずかにひそめる。
(……ん?あの顔……どこかで……)
記憶の奥から、何かが引きずり出される。輪郭、目の形、仕草……妙に引っかかる。
(……似ている……)
口には出さない。ただ、無意識のまま視線がその新入り、レオン・ヴァレントに注がれていた。
何人かが、ざわめいた気配に気づき、オルフェの目線を辿った。だが、レオンは何も気づかないように無表情を保ち、淡々とノートを取っていた。
(面白い)
オルフェは静かに自分の席につき、背筋を伸ばして座る。
(どういうことか、調べる必要があるな。あの顔が、ただの偶然だとは思えない)
かつてのうるさい奴──エリック・ハーヴィル、Sクラス時代に隣の席だったあの少年──の席は空いていた。教師は席だけ残しているようだが、もう彼はここにはいない。
(……倫理だの規則だの、口を開けばそればかり。魔術師をやめて役人にでもなればよかったのに)
エリックの声色や言葉の端々が、記憶の中に蘇る。あれは議論というより、ただの干渉だった。危険だからやめろ、命を軽んじるな、結果より過程を──そんな建前を何十回も聞かされた。
(……結果が全てだろう。手段に価値を置くのは、敗者だけだ)
空席は、教室の中でひときわ静かだった。だが、オルフェにとっては静寂の方が遥かに心地よい。少なくとも、もうあの声を聞かずに済む。
***
魔術理論の講義室では、黒板に映し出される術式を写していた。
オルフェ・クライドはいつも通り、淡々と数式を記録していた。だが、不意に意識が別の一点へと向いた。
(……あの男、レオンだったか)
教室の後方、静かに席に着く金髪の少年。
ただ座っているだけのはずなのに、周囲の空気が違っていた。緊張が走るわけではない。むしろ、当人は何も気にしていない。だが、彼の周囲の空間には「侵入を拒む気配」が満ちていた。
(……妙だな。演算もしていないのに、術式が“干渉されにくい”空気になっている)
講義後、実技演習でそれはさらに顕著になった。訓練内容は「結界展開」。だがここはSクラス──飛来するのは模擬用の魔弾などではない。実戦そのものの威力を持つ雷撃や炎槍だ。避け損ねれば重傷、下手をすれば即死する。
多くの生徒は結界の発動がわずかに遅れ、火傷や痺れに呻き声を上げていた。
多くの生徒が結界の発動にわずかに遅れ、火傷や痺れを負って呻いていた。訓練場の端には学院専属の治癒師が控えており、魔術の光が絶えず走っている。
そんな中、レオンだけは違った。無詠唱の速さで展開し、余計な力みがない。張られた結界は最小限、しかし必要な威力だけを正確に弾き、すぐに次の動きへ移っていた。
(……術式構築ではない。“身体”そのものが、戦うために最適化されている)
剣を振るうときの姿勢を見ただけで、オルフェには分かった。これは「殺すことに慣れた身体」であり、理論や反復訓練ではなく、実戦で磨かれた動きだった。
(……やはり。俺の魔術が「術式」なら、彼のそれは「本能」だな)
戦士の勘と、術式構築の直感は似ている。
ただ、方法が違うだけ。
彼は計算せずに選び、最短の破壊を実行する。
無駄がないのは、美しい。だが同時に、乱雑だ。
(……精密さでは俺が勝る。だが、接近戦では剣を持つあいつが上か)
彼の青い瞳は一見すると氷のように冷たいのに、奥底に燃えるような炎が揺らめいていた。
(興味深いな。……観察する価値はある)
その瞬間、レオン・ヴァレントは、オルフェの研究対象リストの片隅に加わっていた。
***
レオンが初めてその男、オルフェ・クライドを見たとき、思わず眉をひそめた。
黒い学院制服を着崩し、白衣のような上着を肩から滑らせている。一見すれば、ただの不真面目な生徒。
だが、足を止めさせるほどの“異質さ”がそこにはあった。
(……隠してるつもりか?)
無造作な銀髪。紫の瞳。童顔めいた柔らかい顔立ち。普通なら人畜無害に見えるはずの外見なのに、纏っている空気はまるで逆だった。底の見えない結界の残滓のような気配。一歩でも間違えれば、全てを焼き払うような“理性を欠いた危険”の匂い。
(あの顔で……中身は、化け物か)
オルフェの瞳が、一瞬だけこちらを捕らえた。
感情の温度が一切ない瞳。標本を見るような視線。
戦う意思を見せてはいない。だが、あの視線は「分解してしまいたい」と無言で言っているのと同じだった。
***
廊下の足音だけが静かに響いた。
「……君が、新入りか?」
レオンは背後から声をかけられた。わずかに振り返ると、オルフェが立っていた。金髪と銀髪、碧い瞳と紫の瞳、異質な組み合わせが、視線の中で交差した。
「レオン・ヴァレント。17歳。……あんたは?」
「俺はオルフェ・クライド。18歳。復学だ。教室の君の席、元は知り合いが使っていた」
「……そうか」
短い沈黙。
「……で、俺はまだ、君のことをよく知らない。レオン、でいいかな?」
「好きに呼べばいい。敬語も必要ない」
「それは助かるよ。──ところで、ひとつ聞いてもいい?」
レオンは視線を戻す。オルフェは興味深そうにレオンの表情を見つめていた。
「君、どこかで誰かと“似てる”って言われたことは?」
一瞬、空気が引き締まる。
「──そうか?」
レオンは軽く目を細めた。それだけだった。
だが、その瞳の奥に一瞬だけ“何か”がよぎったことを、オルフェは見逃さない。
(やはり、何かある)
「……まあ、気のせいかもしれない。僕の記憶違いってことにしておこうか」
「それが賢明だな」
互いに笑わない。皮肉も、感情もない。
ただ淡々とした“対話”だけが交わされた。




