第49話 Sクラス
昼休みの鐘が鳴る直前、学院の中央棟ロビーにざわめきが広がった。
廊下の一角、壁に並ぶ掲示板の前には、人の輪ができている。貼り出されたばかりの紙を、集まった生徒たちが一斉に覗き込んでいた。
白い紙には、名前と階級の一覧。
無機質な書体が、現実を淡々と告げている。
その中に、見慣れた名があった。
【レオン・ヴァレント Aクラス → Sクラス進級】
「……Sクラス」
小さく呟くレナの声は、ざわめきに紛れて消えそうだった。隣で腕を組んでいたエリックが、あっさりと頷く。
「まあ、あいつならSクラスになれるだろうな。待遇は桁違いだぞ。支給金なんてEクラスの二十倍以上、生活にはまず困らない。他にも色々あって、研究資金も下りるし、実技室はA以下とは比べ物にならない特別仕様だ。教室も……まあ、Eクラスなんかと比べ物にならないな」
「さすが元Sクラス」
レナの素直な感想に、エリックは肩を竦める。
「俺も異例の大出世だったんだけどな。初登校の日、家から手紙が届いたんだ。“うちの子がそんなに出来るはずがない”ってさ」
思い出し笑いを混ぜた声に、レナは小さく笑った。しかし、エリックはすぐに口元を引き締める。
「……でもな、あのクラスはやっぱり異常な奴も多い。金や待遇じゃ割り切れないわけよ」
「異常な奴?」
「中でも……今は休学中だけど、“オルフェ”は合わなかった。顔は綺麗だし頭も切れる。……けど、性格がな。人を人とも思わない。平気で実験台にするような奴なんだよ」
そこで彼は言葉を切った。冗談めかした調子は消え、声の奥に微かに嫌悪が滲んでいた。
ロビーのざわめきは続いている。だが、掲示板の紙に並んだ階級の文字は、変わらずそこにあった。
白い紙の上、Sクラスという黒い印字が、妙に重く、冷たく見えた。
***
中央棟、掲示板前。生徒たちの関心は、紙に刻まれた昇級者一覧へと集まっている。
【レオン・ヴァレント → Sクラス昇級】
その文字列を、レオンは一瞥しただけだった。短く息を吐く。思ったより早かった──だが、それ以上の感慨はない。
(いずれこうなることは分かっていた)
Sクラスと言えば学院の頂点だ。十名前後の少数精鋭だけが在籍を許され、同時に学内で“権力”を持つ唯一の階級である。研究棟の自由利用、裏ルートでの情報入手の一部合法化などが付与される。
通常、学院は18〜20歳前後で卒業するのが一般的だが、Sクラスだけは例外である。彼らは22歳を超えても在籍が許され、実戦部隊や研究機関と密接に関わりながら、半ば“学院戦力”として扱われ続けるのだ。
(つまり、これまで交渉の場にすら現れなかった“上層”に、手を伸ばせる)
それは栄誉ではなかった。レオンにとっては、単なる拠点の獲得にすぎない。生き残るためには“地盤”が要る。裏社会に沈み込むだけでは、レナを守りきれない。法も正義も、ただの飾りでしかない現実で、唯一有効なのは──上に立つこと。
口元がわずかに歪む。掲示板から背を向けると、視線がいくつも刺さってくるのを感じた。
「まさか、レオン・ヴァレントが……」
「やっぱり、あいつ何者なんだ……」
遠巻きに聞こえる声は、嫉妬と好奇と恐れの入り混じったものだが、そんな反応は初めから織り込み済みだった。
(……帰る場所など、とうに捨てた。背にできるのは、自分の力だけ)
Sクラスに上がれば、必然的に“上の連中”の視界に入る。王族の派閥、軍部のスカウト、諜報機関の干渉──そのすべてが、学院の頂点を目指す者に群がる。だからこそ、ここを掌握することが第一条件だった。
(……レナを守るには、“場所”が必要なんだ。)
己の意志で動かせる場所であり、あらゆる干渉を拒絶できる立場。それらが、今、確かに手の中へ転がり込み始めている。
レオン・ヴァレントの瞳には、もはや学院という枠すら映っていなかった。彼の目は、ただ“その先”を見据えている。
***
Sクラス専用棟の最上階、重厚な扉の前にレオンは立った。淡い銀の装飾が施された扉には、他の教室にはない魔力反応が滲んでいる。高密度の遮断結界だ。
(なるほど。隔離が徹底されるというわけか)
扉の前に立ったレオンは、静かに掌をかざす。登録された魔力量が照合されると、結界はゆっくりと緩み、音もなく扉が開いた。
ただの静寂ではなく、外の喧騒が切り落とされた、まるで別世界のような沈黙だった。
一歩、足を踏み入れる。
白と黒を基調とした石造りの床。高窓から差し込む陽光はやけに澄んでいて、埃一つ見当たらない教室の中に、十の机が整然と並んでいた。
そのうち五人が座っていた。
誰も、こちらを見ない。
魔術書に目を落とす者、ペンを走らせ、ノートに数式を記す者、窓の外を無言で眺めている者。
(静かすぎる)
レオンは無言のまま、扉際から教室の中央まで歩を進める。
床は一切軋まず、足音さえも吸い込まれるように消えた。
掲示板に掲示された通り、彼は“正式にSクラス”の一員だ。
だが、歓迎の言葉も、軽い視線も、ここには存在しない。
机のひとつに手をかけると、その後ろの席から、静かな声が飛んだ。
「……君が、レオン・ヴァレント?」
レオンは振り向かず、ただ一言だけ返す。
「そうだ」
声の主は、銀縁の眼鏡をかけた男だった。年齢はおそらくレオンより上だった。目元は笑っているが、笑みに温度はない。
「初日なら、注意事項ぐらいは伝えておこう。……ここでは、教師も“対等”だと思ってくれ」
「Aとは違うというわけか」
「ああ。Sは“選ばれた戦力”だ。教師陣からの命令は、提案に過ぎない」
つまり、実力次第で命令を拒否しても咎められない。それはつまり、学院が“兵器”として彼らを扱っていることの裏返しでもあった。
レオンが無言で頷いたその時、もうひとり、椅子に深く座ったままの少女が言った。
「席、空いてるとこに座りなよ。いま在籍は五人だけ。エリックは席だけ残ってる。あと一人は休学中だから」
レオンの目が、空席に滑る。
(五人+俺で六。十席中、四席が空いている。エリックと、休学中が一人。残りの席は?)
考えながら、問いかける。
「休学の理由は?」
「結界を暴走させて、学院の生徒を何人も殺しちゃったのよ。Sクラスの生徒も含めてね。それで事実上、謹慎中という名の休学。あの人、元から“授業にはあまりいないけど、成績はトップ”って変人だったし。名前はオルフェ・クライド。聞いたことある?」
(……オルフェ)
聞いたことのない名前だった。少女は口元を歪めた。
「天才だけど、トンデモない奴よ。事故がなければ学内での地位は揺るぎなかっただろうけど。あの人がいない間に、席を馴染ませるのが得策よ」
レオンは一瞬、何も答えず、静かに一番後ろの窓際に歩いた。その席は、ちょうどオルフェの席と対角にあたる。
(……ここなら、背を取られることもない)
椅子に腰を下ろすと、掌の感覚に微かな魔術式の触感が伝わる。机ひとつにも、強固な魔術結界が張られているらしい。
下級クラスとはまるで格が違う。
ふと、他のSクラス生がそれぞれの課題に集中しているのが見えた。誰も彼も、静かに、鋭くそれぞれが“自分だけの戦争”をしているような、そんな印象だった。
ここでは、誰も仲間ではない。
誰も信用しない。
だが、誰も手出しできない。
教室の窓から差し込む光が、レオンの頬をわずかに照らした。彼の目は、既にこの場所を「使うべき道具」として見ていた。




