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Fated Oath ―誓約の果て―  作者: りんごあめ
第ニ章 真贋の饗宴─ Carnival of Blood
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第48話 痕跡消去

 レナが洗面室から戻ってきたとき、レオンは窓辺に立っていた。部屋の灯りは抑えられ、カーテン越しに夜明けの光がぼんやりと差し込んでいる。


「ありがとう、服……」


 そう言ったレナの声は、少し掠れていた。疲労と、恐怖と、今まで感じたことのない“何か”が心をかき乱していた。レオンは静かに振り返ると、彼女の顔をしばらく見つめた。


「今日はここで休んでいけ。学院には俺が連絡しておく。ベッドは使っていい、俺はソファで寝る」


 短く淡々と告げた声に、レナは一瞬だけ躊躇ったが、ふとその言葉の裏にある“優しさ”を感じ取り、小さくうなずいた。ベッドに腰を下ろし、布団をそっと持ち上げる。そのまま、しばらく動けなかった。


「……私、これから、どうなるのかな」


 不意に出た声は、自分でも驚くほど震えていた。


 布団を抱える腕が少しだけ力を込める。不安は、ただの“怖さ”だけじゃなかった。“誰かを巻き込んでしまった”という罪悪感が、芯にこびりついていた。レオンは少しだけ眉をひそめた。だが、すぐに表情を元に戻すと、部屋の中央へと歩いてくる。


「……魔力痕は、消した。特定されることはない。」


 レオンはゆっくりと低い声で告げた。


「けど、あれほどの爆心──魔竜を蒸発させる程の力の痕跡を、世界が見逃すわけがない。わずかな残留反応でも、嗅ぎつけてくる奴らがいるだろう」


 レナの喉が、かすかに鳴る。その言葉の意味が、分かってしまったから。


「ファウレス家の血族が生きていたと……あらゆる国、軍、研究機関が知ったんだからな」


 そのときのレオンの声は、どこか、諦念と怒りが同居したような静けさだった。


「…っ」


 レナは返す言葉を持たなかった。怖い。逃げたい。でも、もう逃げ道なんてどこにもない。ふと、視線を感じて顔を上げると、レオンがすぐ傍にいた。


「レナ」


 呼ばれた名に、ぴくりと反応する。彼は静かに言った。


「お前は、今は眠ったほうがいい」


 その言葉は、優しさというよりは命令だった。その奥には、“全部、自分が引き受ける”という明確な意思が感じられた。


 レナはゆっくりと布団の中に身を横たえた。背を向けた彼の後ろ姿を、かすかに見る。そして静かに目を閉じる。守られているという安心と、彼の危うさと、どこか遠くで火種が燃え上がっているような緊張の狭間で、レナは眠りへと落ちていった。


 それから、どのくらいの時間がたっただろうか。窓から柔らかな光が差し込んでいた。レナが目を覚ました時、もう午前が終わりかける頃だった。


 昨日ここで眠ったことは、ちゃんと覚えていた。レオンのいたリビングは妙に静かだった。ソファにも、机のそばにも、あの少年の姿はない。ベッドから出て辺りを見回す。机には彼の筆記用具、魔導装具、書類が整然と並んでいた。


「……もう、出て行ったんだ。どこに行ったのかな」


 彼女はぽつりと呟いた。



 ***



 その朝、ギルドでは一つの依頼書がひっそりと破棄されていた。


 依頼タイトル:

《低リスク調査案件:森林区域内 魔物痕調査》

 難度:F~E級対象


 その記録は、依頼掲示板からも、ギルド記録台帳からも消されていた。依頼を受けた人物の名すら、データから削除され、代わりに“未確定案件”のまま閉鎖処理がなされた。


 その作業を行っていたのは蒼い瞳の少年だ。


「……これで、いい」


 ギルド裏の資料室、窓のない部屋の奥で、黒いフードを被った少年が、火属性の魔術で書類を燃やしていた。


 レオンは依頼の発注元と受付担当にそれぞれ圧力をかけ、ギルド記録を“上書き”した。圧をかけられた発注元は青ざめて口を噤み、受付係は「そんな依頼、最初からなかった」と震えながら答えるしかなかった。


 封印術で帳簿そのものを閉じれば、残るのは曖昧な記憶だけだ。「依頼があったはず」という感覚は残るが、証拠はどこにもない。


 国家魔術局へ共有される記録にも、この“空白”がそのまま渡る。痕跡さえ残らなければ、誰も辿り着けない。


(レナがあの森に行った痕跡を、完全に消さなきゃいけない)


 それが、今の彼にとっての最優先事項だった。

 どれほど自分が怪しまれようともいい。

 ただ、“彼女が追われる側になることだけは許さない”。


 彼は最後の文書を燃やすと、まるで何もなかったかのように資料室を出た。



 ***



「レオンくん、実地任務の報告書は提出済みか?」


 教師がレオンに声をかける。


「はい、昨日のうちに。問題はありません」


「さすがだな。Eクラスの指導もしてくれるとは感心だ」


 レオンは淡く微笑みながら会釈をする。完璧な優等生の姿だった。


(…必要なのは、“虚像”の維持だけでいい。この場所では、“俺が何者か”を知る必要はない)


 エリックの視線が背後から刺さっているのにも気づいていた。その視線を無視して、彼は振り返らずに教室へと戻っていく。


 同じ頃、学院の最上階──カリグレア魔術学院の頂点に位置する学院長室では、昼の陽光が重厚な書棚と深紅の絨毯を照らしていた。数名の教師が分厚い紙束を囲み、最後のページに視線を落とす。報告書には、整った筆跡と正規の結界印が記されており、最後のページには、見慣れた署名があった。


【レオン・ヴァレント】


 若き才覚を持つ学院推薦生の名。


「ふむ、なるほど。……これは、結界術の実地演習か」


 報告書を読み終えた中年の教師が、眼鏡を外しながら頷いた。


「学院外での実習は原則許可制だが、この書式であれば問題ない。協力依頼書の写し、魔力署名、行動記録……すべて揃っている。形式的には問題なし。レオン君なら、まあ大丈夫だろう」


 隣の教師もページを繰りながら肯定した。


「“結界構築訓練におけるEクラス補助実習の外部協力”……か。Aクラス生が帯同し、安全管理を行ったということか。さすがはレオン君、書類の整え方まで一流だ」


「同行したEクラスの生徒は……レナ・ファリスか。ああ、確かに大人しい子だった。特に問題は起こさないタイプだろう」


「ええ。医務室報告も軽い擦り傷程度。この数日休んでいたのは風邪ということらしい」


 会話は淡々と進んだ。誰も報告書の中身に深く踏み込もうとはしなかった。レオン・ヴァレント──それだけで、信頼に足ると判断された。誰も、報告書の“中身”を疑ってはいなかった。記された日付。魔力署名の重なり。写しの依頼文。──それらすべてが、完璧に整っていたからだ。


 その実習日が“魔竜の森での暴走”であり、Eクラスの少女が死にかけ、血の力が暴走しかけたなどとは、教師たちの誰も想像していない。静かに閉じられた報告書は、ほどなくして“記録済”の判を押され、棚へと収められた。学院の制度において、報告書が真実である限り、現実は“それに準ずる”。


「……まあ、彼なら問題は起こさないよ。優等生だからな」


 そしてこの日、ひとつの虚偽が、公式な“事実”として受理された。


 学院の報告書も、ギルドの記録も全て、今や“虚構”にすり替わった。真実を知る者は、もう彼一人だけだった。



 ***



 数日振りに学院の門をくぐった瞬間、レナは少しだけ歩幅を遅らせた。そこには日常が広がっていた。制服姿の生徒たちが行き交い、笑い声が響くこの場所がどこか遠くに思えた。


「……やっと戻ってきた」


 エリックはEクラスの教室の隅で、何気ない風を装いながらも目を光らせていた。レナの姿を見つけた瞬間、その柔和な顔に僅かな影が走る。


(顔色が悪い。足取りもぎこちない。しかも……)


 教室に入ってきた彼女の後ろを、一瞬だけレオンが見送っていた。


「やぁ、レナ。おかえり」


 エリックは柔らかく微笑みながらも、慎重に声をかける。


「…うん。ただいま」


 レナは微笑んだが、その声には張りがなかった。笑顔はあった。しかし“心の芯”が抜け落ちたような空気だ。


「体調は大丈夫か?……少し、痩せた?」


「うん、もう大丈夫。痩せたかな?……」


「……気のせいかな」


 そう言いながら、エリックは心の中で思った。


(まるで、何かを“燃やした”あとみたいだ)

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