第45話 災厄の娘
闇の中に、誰かの声がした。
「……レナ」
その声は低く、深く、どこか寂しげで、怒りを堪えたようにも聞こえた。
「……ん……」
レナはゆっくりと瞼を開けた。まぶたの裏に焼き付いた赤い光と、母の声がまだ耳に残っている。
夜のように深い青色の瞳がレナを見ていた。
レオンだった。
彼は無言のまま、ずっとレナの顔を見下ろしていた。
その目にはいつもの冷静さと、何か壊れかけたような脆さが混じっていた。
「レ……オン……? どうしてここに……?ああ…夢かな……?こんな所に…来るわけないし……」
「夢じゃない。お前は生きてる」
その一言に、どこか怒りのようなものが滲んでいた。
「……私……あの魔物に……」
「魔竜なら、お前の魔法で全部消えたよ」
レオンは淡々とした声で伝えた。
「……そっか……」
レナはうっすらと笑った。なぜだか、泣きそうだった。
「……結局、いつも、レオンが助けてくれるんだね」
レナの声は風に乗って消えていった。
***
レナが再度気を失った後、レオンは一人で動いた。
周囲の木々、魔力の痕跡、焼けた土壌、空間のゆがみ、それら全てに“干渉”し、記録を破壊し、証拠を焼き潰していった。
彼の手には封印術式があった。空間魔術と複合する禁術に近い結界を重ねながら、“魔竜の痕跡”と“レナの魔力反応”を根こそぎ消していく。
まるでこの場に、最初から何もなかったかのように。
レナがいた証拠も、彼女が使った魔力の残響も、誰にも解析されないように、抹消する。
それは、レオンにとって“保護”の一環であり、
同時に“所有”に近い狂気だった。
(これ以上、誰にも嗅ぎつけさせない。お前は……俺だけが、知っていればいい)
目を伏せたまま、魔法陣を閉じる。
その指先は、驚くほど穏やかで、冷たかった。
***
薄暗い塔の中。数多の結界が張られた禁術管理局の監視室で、魔力探知機がけたたましく鳴り響いた。
「異常反応……東方の森、第四指定区画です!」
「数値は?」
「……基準値の百二十倍。禁術レベル、特級──いや、それ以上です」
室内がざわつく。幾重にも重ねられた警戒網の中でも、これほどの魔力波動は過去に例がなかった。
「術式の性質は?」
「断定不能。構造が……古い。解析不能な血魔術系の可能性があります」
無言のまま、幹部の一人が立ち上がった。
「コードF──ファウレス家残存個体の可能性を優先して対応せよ。該当地域には特殊部隊を向かわせ。現地に接触者がいるなら、早急に捕獲。状況によっては……排除しても構わん」
***
崩れかけた時計塔の上。
風も届かぬ高所に、ひとりの青年が立っていた。
月光にプラチナブロンドの髪が淡く光り、外套が音もなく揺れる。人々の喧騒も届かぬ異界の外縁部。
──イリア・ヴァレンティア。
この都市に籍はなく、記録もない。人々の営みの隙間に入り込んだ、異物のような存在。誰の目にも映らぬまま、確かに彼はここにいた。
地図にさえ記されぬ街角、廃棄された教会の鐘楼跡で彼は無言のまま、ただ空を見上げていた。
そのとき、空間の端が音もなく震えたように感じた。
皮膚の下、神経の奥、魂の底をざわつきが走る。それは明らかに異質だった。
「…………」
イリアは、ゆるやかに瞼を伏せる。呼吸は浅く、心拍は限りなく静かに。けれど、内側の“感覚”だけが確実に目覚めていた。
大気の流れではない。
地脈の変動でも、魔獣の咆哮でもない。
もっと深い──もっと原始的な、“血”の波長。
(……魔竜の森)
数百キロ離れた古の禁域──
忌まわしき伝承がいまだ絶えぬ、竜の眠る地。
そこに触れた。
ただの魔力ではなく、呪いのような血の波動だった。
「……ファウレスの血、か」
かすかに、彼の唇が動いた。いつもの微笑みは、そこにはなかった。代わりに浮かんだのは、静謐な確信だった。
「……ふふ。これは、行かなきゃね」
風もない空の下、彼の外套がふわりと揺れる。
「……また君に会えるんだね」
青年はそっと、塔の縁に足をかけた。
その瞬間──
彼の姿は、月の光と共に溶けるように、闇の中へと消えていった。
***
古の魔導書と錬金書に囲まれた書斎の執務机に座る男──セリル・アロイスの父が報告書を読んでいた。
「魔竜が、蒸発だと……?」
「現場には直径数百メートルのクレーター。術式痕は消えかけていますが、魔力の“残響”が確認されております。血の波動を中心とした、極めて異質な現象です」
静かに、眼鏡を外し、机の上に置く。
「……生きていたか、ファウレスの娘」
「手を打ちますか?」
「いや、まだ早い。」
彼は立ち上がる。冷徹に、そして確信に満ちた声音で呟いた。
「セリルに調べさせろ。あの“血”が生きているなら、早めに回収しなければ……他所に利用される」
***
情報網を操る眼鏡をかけた黒髪の男、セリル・アロイスは、机の上に並べた報告書の束を指先で弾いていた。
「セルトリア王国内の魔竜の森で異常魔力波……ね。しかも、即座に禁術管理局が動いた?」
冷静な顔の裏で、ぞわりとした感覚が首筋を撫でる。
(この気配、どこかで……)
彼は椅子から立ち上がり、部屋の奥の鍵付きの箱を開く。中には、ファウレス家の血に関する古文書が収められていた。
(まさか、あの娘が生きていたとでも?)
「……報告書に、“例の血筋”が学院に潜んでいるという極秘情報もあったな。もしや……?」
彼は地図を広げ、学院と森の位置を確認した。




