第42話 目覚めは、名もなき森より
カフェで楽しい時間を過ごした後、エリックと別れてレナは寮に戻った。足音を立てぬよう静かに階段を上がり、自室のドアを開けて、ゆっくりと閉める。カチリ、と小さく鍵がかかる音がした。
何もなかったはずの部屋に、少しずつ色々なものが増えていた。ベッドの傍に置かれたブローチ。棚の上には、紅茶の缶と、小さな花瓶。どれもレオンが買ってくれたもの。クローゼットには沢山の服。そして、壁際の本棚には、二人で選んだ本が何冊も並んでいた。
その中で──ふと目に留まった、一枚の写真。学院の中庭で撮った、レオンとの記念写真。レオンは無表情ながらも僅かに口元に笑みを浮かべていた。その隣で、あのときの自分は、心から笑っていた。
レナの肩が、小さく震えた。
そして──静かに、涙がこぼれた。
「……どうして……?」
声にならない嗚咽が、喉の奥から漏れた。その場にしゃがみこむ。腕で顔を覆っても、涙は止まらなかった。
痛い。苦しい。どうして、こんなにも苦しいのか。
(もう……分からないよ)
あの優しさは本物だった?あの言葉は、信じてよかった?
信じた自分が愚かだったの? それとも、彼を責めてはいけなかった?
心が裂けそうだった。この部屋にあるもの全てが、刃のようにレナの心を突き刺した。逃げ場がどこにもなかった。
「……会いたいのに……怖くて、会えない……っ」
嗚咽が、堰を切ったように溢れる。喉がひりつく。胸が焼けるように痛い。それでも泣かずにはいられなかった。一人で抱えるには、あまりにも大きな傷だった。
それでも、どんなに苦しくても。
生きている限り、たとえ痛みと向き合いながらでも、明日に進んでいくしかない。
頬を伝う涙が、床に流れ落ちた。
***
生きていくための現実は、容赦なくレナに迫ってきた。Eクラスの生活支給金だけでは、生活は厳しかった。学用品、食費、衣類……最低限の暮らしがやっとで、全く余裕がない。部屋にある“もらったもの”にすがって生きるわけにもいかない。
──レオンがいない、以前の自分に戻るだけ。自分一人で生きていけばいい。
「……バイト、探さなきゃ……」
ぽつりと呟く。声は乾いていて、けれど微かに震えていた。
***
薄曇りの空の下で、レナはギルドの裏口から出て、小さな依頼票を胸に抱えて森へと向かっていた。
受けたのは、“魔物痕跡の調査”という軽めの依頼だった。魔物が現れるという古い森の一角。魔物と言っても、生息しているのは弱いランクのもの。森の遥か奥では魔竜が眠っているというが、百年以上その姿を見ていないそうだ。討伐や交戦は想定されておらず、あくまで“痕跡の有無”と“現場の状況”を記録するだけであり、誰でもできる簡単な仕事だった。
「基本的にはE級魔物の痕跡調査だけ。すぐ戻れる距離だし、念のため結界札もつけとくわね。指定区域はこの地図の通り、森の浅い範囲だけ。深入り禁止って書いてあるでしょ?」
ギルド職員の女性にそう言われて手渡された地図と札を、レナは慎重に荷物へしまい込んだ。
「はい、大丈夫です」
声に出した返事は少しだけ不安げだったが、それでも表情には覚悟が浮かんでいた。
(これなら、私でも……できるかもしれない)
ギルド案件の中でも、最も初心者向けとされる内容。
それでも、自分の力でやり遂げられる“仕事”かもしれないと思うと胸がほんの少しだけ膨らんだ。
草を踏む音や鳥のさえずり、風に揺れる梢の音が心地よく耳に届く。
レナは、森の入口で立ち止まった。
ふと、自分の胸元へと手をやる。
(……うん、今日は無い)
鍵のペンダント──いつも首にかけていた、銀細工の重みがそこにない。
エリックの言葉がよぎる。
『その鍵、位置情報ついてると思うから、一度外して外出してみたらどうだ?』
考えれば考えるほどあり得る気がして、今日は家に置いてきた。
「……大丈夫。今日は、私だけの判断で動くんだ」
自分に言い聞かせるように呟いて、レナは結界札を手に森の中へと足を踏み入れた。
ほんのり湿った土の匂いや青緑の葉のざわめきを五感で捉える。魔力を帯びた気配が遠くに漂っているのを感じつつも、森の気は穏やかだった。
誰にも知られず、自分の足で歩く。
誰かの庇護も鎖も、もうない。
***
森の中は、昼を過ぎても薄暗かった。木々の枝が高く重なり合い、陽の光を拒むように葉を揺らす。
(…静かすぎる)
レナは、手に持った結界札に目を落とした。微かに札が反応している。だが、指定された魔物痕跡エリアより手前で感知が始まっていた。
「地図じゃ、この辺りはまだ反応しないはずなのに……」
土の上にしゃがみこむと、そこには奇妙な痕跡があった。
太い木の根を踏み割るような爪痕。焼け焦げたように、葉や小枝が炭のように黒ずんでいる。
(おかしいな。ここは低ランク向けの調査区域じゃ…)
指先で土を掬うと、指に微かな黒い粉がついた。
(魔素の残留…?)
その瞬間──
「……!」
微かな音が耳に届いた。
風が止まった。鳥のさえずりもない。
空気が、重たく沈む。
レナの心臓がどくん、と跳ねた。
(おかしい……この森、何かいる)
逃げようと立ち上がる。その瞬間、頭上の梢がバサリと大きく揺れた。黒い影が、ほんの一瞬、木々の間を横切った。
(……なに?)
その“気配”は、明確に“上位”だった。
魔物とは違う、知性と狂気を孕んだ“存在”。
「……魔竜?」
息が止まりそうだった。
まだ姿は見えない。だが、レナの感覚が確かに告げていた。“あれ”は、ただの魔物じゃない。
(……に……逃げなきゃ)
足が震えるのを必死で押さえながら、レナは来た道へと引き返し始めた。
***
同時刻、学院の一室。机の上に置かれた銀の鍵が、微かに振動していた。レオンは眉をひそめてそれを見つめた。普段なら、安定した波形を示すはずの位置情報が、断続的に“途切れて”いた。
「まさか、壊されたか?」
彼の心の奥で、冷たい予感が蠢いた。手を伸ばし、魔力を鍵へと流し込む。だが、応答はない。
(…この反応は、身につけていない、のか……)
静かに席を立つ。上着を手に取りながら、レオンの目は、ひときわ鋭く、冷えていた。
「……馬鹿な真似を」
感情を押し殺した声。だがその心は、怒りにも似た焦燥に満ちていた。
(もし、何かがレナに触れていたら?)
再び彼の中の「理性の境界」が、薄く軋む音を立てた。




