第2話 Eクラスにいる少女
号令と同時に、床の中央に刻まれた結界陣が光を帯びた。魔力のうねりが一瞬で集まり、歪む光の中から四足の獣型魔物が姿を現す。灰色の皮膚に、瞳だけが獰猛な赤色に光っている。
“魔物の模擬討伐訓練”──Eクラス用に力を抑えてあるとはいえ、牙も爪も鋭く、当たれば普通に怪我をする。
生徒たちはペアになって結界の内側に入り、攻撃や防御の連携を試される。
順番が進み、いよいよレナたちの番が近づいてきた。
レナの掌に汗が滲む。
「そんな緊張しなくても、あんなの大したことないぞ」
隣でレオンが、あっけらかんと言った。
「……え、でも」
「俺、攻撃に回るから、お前は補助な。回避でも素早さでも何でもいい」
その一言とともに、レオンは先に結界の内側へ足を踏み入れた。
魔物が唸り声をあげ、四肢をかがめて突進の姿勢を取る。
(補助魔法……早く)
レナは必死に両手をかざした。けれど光は散り、術式は途中でほどけていく。
形にならない。焦りばかりが募っていく。
その瞬間、魔物の爪が空気を切り裂いた。レオンは一歩で間合いを詰め、剣を振り抜く。青い閃光が走り、魔物の動きが止まった。
「……おい、補助はまだなのか」
振り返りざまの低い声に、レナはかろうじて頷いた。
その時だった。
魔物の体が一瞬で膨張し、赤黒い魔力が全身から噴き出した。
「な……っ!?」
レナが息を呑む。見ると、結界陣の一角がひび割れ、淡い光が不規則に点滅している。
教師たちが慌てて補助術式を展開するが、ひびは広がっていくばかりだった。
(……暴走!?)
訓練用の魔物に“たまに”起きる事故──結界の劣化や術式の乱れが引き金となり、本来封じられていた力が暴れ出す。運が悪ければ、そのまま生徒が死ぬこともある。
魔物の爪が床を抉り、金属音のような鳴き声を上げた。レナは一歩後ずさる。
「……邪魔だ、下がってろ」
レオンの声が低く響いた。
次の瞬間、彼は片手を胸の前にかざし、淡々と呟き始める。
「蒼き刃よ、空気を裂け──」
彼の足元で魔力が渦を巻く。青白い光が一気に収束し、剣先から迸った魔力の刃が真っ直ぐ魔物へ走った。
次の瞬間巨大な体が真横に裂け、光の粒となって霧散した。
教師たちの補助結界が展開するより早く、レオンは魔物を鎮圧していた。
「……何の補助もなしに、こんな……」
呆然とする生徒たちの声が、ざわめきとなって実技室に広がる。
レオンは剣を軽く払うと無感情に呟いた。
「大したことないな」
***
魔物の残骸が光の粒となって消え、実技室が静まり返る。
「……す、すごい……」
「え、今の一撃で……」
クラスメイトたちのざわめきが波のように広がる。
教師は一歩前に出て、息を整えながらレオンに向き直った。
「レオン・ヴァレント……迅速な対応、感謝する。助かった」
その声には、明らかに先ほどまでの“訓練担当”の余裕はなかった。
生徒たちの視線が、一斉にレオンへ注がれる。
恐怖とも憧れともつかない、混じり合った眼差し。
つい先日まで“転入生”として物珍しげに囲んでいた少年が、今や別格の存在に見えていた。
「……それでは」
教師は、咳払いをして教室全体に向き直る。
「結界事故があったため、本日の訓練内容を変更する。これからは基礎攻防に切り替える。相手の魔術を受けて、どう対応できるか見せてもらう。パートナー同士で一撃ずつだ。詠唱速度、発動、制御。すべて採点対象だぞ」
緊張とざわめきの残る室内で、各ペアが互いに目を合わせ、魔法陣の準備に取りかかっていく。
レナは、隣に立つレオンの横顔をちらりと見上げた。
彼は相変わらず淡々とした表情のままだった。
「構えろ」
レオンは、右手に小さな魔力陣を浮かべた。青白い光が指先で脈打ち、その整然とした術式に、周囲の何人かが息を呑む。
レナは慌てて両手を前に突き出した。火球を作ろうとするが安定しない。光が瞬き、霧散し、再び形を取るが、それでも球状にはならなかった。
「……ん?お前、こんな初歩もできないのか?カリグレア学院……ここ、一応名門だろ?」
ふいに落ちた言葉は、氷の刃のように鋭かった。つい先ほどまで教師やクラスメイトに見せていた柔らかな笑みは消え失せ、レオンの瞳は冷ややかに細められていた。
「え……っと」
レナはうまく言葉が出ない。
「基礎魔術も出来ないのか?これで実技なんて出来るかよ。パートナー変更してもらいたいくらいなんだが」
その物言いは、切り捨てるような響きだった。
「……ご、ごめんなさい」
反論できなかった。彼の言葉が正しいと分かってしまう自分が悔しくて、胸が重くなる。
「はぁ、こんなのと組むハメになるとは思わなかったな」
周囲には聞こえないように吐き捨てられたその一言が、胸の奥に深く突き刺さった。
「仕方ないな」
レオンは短く吐き捨てると、足元の魔力陣を一瞬で構築した。
魔法陣の線は揺らぐことなく、完璧に閉じた幾何学を描く。
次の瞬間、空気が低く唸った。温度が一気に数度下がり、周囲の生徒たちが思わず肩をすくめる。
「実戦ってのは、こうやる」
その言葉と同時に、魔力が弾けた。真紅の光線が一直線に走り、標的として設置されていた鋼製の訓練人形を貫く。金属の表面が一瞬で高温に晒され、溶けた鉄が床に落ちた。
「っ……!」
近くで見ていた生徒が息を呑む。ただ威力が高いだけではない。狙いも威力も、最小限の魔力消費で最大効率を引き出す“実戦仕様”の魔術だった。教師ですら眉をひそめ、感嘆とも警戒ともつかぬ視線を送る。
レオンはその様子を一瞥もせず、淡々と魔力陣を解除した。
「この程度、Eクラスの授業には過剰すぎるか」
そう呟いた声には、ほんの僅かに退屈さが混じっていた。
レナは慌てて魔術を試そうとする。
「ご、ごめんなさい……もう一回……」
「いや、もういい」
レオンは視線を逸らし、背を向けた。訓練場の扉に向かって歩き出す。
「ど……どこ行くの?」
必死に声をかけると、彼は振り返らずに答えた。
「どこでもいいだろ。……何でお前に、いちいち報告しないといけないんだ」
レオンが扉を抜けていくと、周囲のクラスメイトたちの視線が、レナの背中に突き刺さる。レナは口を噤んだまま、扉の方へと走り出した。
「ま、待って……!」
訓練場の外、石畳の廊下を抜けて、角を曲がる。ほんの数歩先、金色の髪が見えた。レナは手を伸ばしたが、その背中は触れるより早く、また遠ざかり見失ってしまった。
呼吸が荒くなっても構わず、視線を左右に走らせる。
やがて──何かが軋むような音が聞こえた。
(……嫌な音……)
たどり着いた先で、レナが目にした光景。
上級クラスの少年が壁際に追い詰められ、レオンの剣が喉元へと迫っている。
レオンの剣は容赦なく逃げ場を確実に潰していた。
(……このままじゃ……あの人、殺される?)
レナは小さく息を呑み、周囲を見回す。誰もいない。護身用のナイフを取り出すと、レナは僅かに指を切った。
(血の魔力。僅かなら使っても大丈夫なはず)
レナが放った防御障壁の魔法。見えない壁がレオンと少年の間に割り込み、刃が弾かれると少年は助かった。
「……誰だ」
レオンが振り返る。青い瞳が、氷のように光っている。
その視線と、真正面からぶつかる。
「……お前が?」
「……学院内での戦闘は禁止なはずです」
レナは息を整えながら言った。
「はあ……」
ため息と共に、足音もなく距離を詰められる。
「……黙れよ」
囁くようにして、それは刃物のように鋭かった。
「いい度胸だな。お前から殺されたいのか?」




