第37話 小さな酒場 後編
夜が深く静まるころ、バーの空気もどこかゆるやかになっていた。
カウンターでグラスを傾けるレオンの視界に、サラがマスターに頭を下げる姿が映る。
「お先に失礼します」
「気をつけてな。裏道は通るなよ」
マスターの声が響くと、サラは小さく笑って手を振った。だが、足取りはどこか疲れていた。
──それから、数分後のことだった。
人気のない裏通り。舗装の粗い石畳を一人歩くサラの背後から、足音が複数、重なるように響いた。
「なぁ、ここらに美人がいるって聞いてたけど……ほんとだったな」
「へへ……ひとりかよ。運が悪ぃな、お姉ちゃん」
「……っ、通して……」
声も、足も、震えた。囲んできた男たちは笑っていた。目にいやらしさを浮かべて、逃げ場をふさぐように近づいてくる。
「やめて……っ」
声は涙に滲んで、身体はすくんで動かない。腕を掴まれ、狭い路地へと引きずられていく。
「なぁに、ちょっと遊ぶだけだ。大人しくしてりゃ痛いことはしねぇって」
にやけた顔が目前に迫ったその瞬間、ぐしゃっと、肉が裂ける音が響いた。サラの目の前で、男の身体が崩れ落ちた。首が、なかった。
「きゃあああっ!!」
悲鳴を上げて身を起こす。だが、腕を掴んでいたはずの他の二人も、もういなかった。路地の奥、影の中に立っていたのは、見慣れた金の髪。剣も抜かず、血に染まることもなく、ただ立っていた。レオンだった。
「……ここ最近、お前を狙ってた輩だ」
吐き捨てるように言うその声は、いつもの無感情なそれだった。
「マスターに頼まれてた。……前にも似たようなのがいたから少しずつ潰してたが、また湧いてくるとはな」
サラは崩れ落ち、涙を流した。怖かった。悔しかった。結局、自分は何もできない。
「……魔力、あるんだろ?魔法は使えないのか?」
レオンの問いに、サラは首を横に振った。
「少しはあるけど……魔法、ろくに覚えてなくて……っ」
「なら、夜のバイトは辞めるか、力をつけろ。せめて、自分を守れるくらいにな」
「……ちから……」
呟くサラの声は、泣きじゃくった子供のようだった。
「立て。……送っていく」
レオンの言葉に、サラはゆっくりと頷いた。静かな夜道を抜けて、二人はサラの住む古い民家へたどり着いた。レオンは足を止め、言う。
「……マスターには世話になってるからな」
まるで何もなかったように、レオンは背を向ける。サラは小さく「ありがとう」と言って、手を上げた。背中を向けて、ドアに消える。
──その姿に、レオンは何の感情も浮かべないまま、静かに夜の闇へと溶けていった。
***
その日のバーはまだ開店前だった。カウンターに座るサラの背筋は、いつになくまっすぐだった。
「──カリグレア学院へ行く……?」
マスターが、グラスを拭いていた手を止める。驚きの混じったその声に、サラは頷いた。
「はい。レオンに助けてもらってからずっと……必死で勉強しましたから。ギリギリ合格しました。来期から正式に通う予定です」
「そうか。それは……驚いたな」
マスターの声は、半分は嬉しさで、半分は心配でできていた。
「ここでのバイトも、できる限り続けたいと思っています」
「……理由を聞いてもいいかい?」
サラは少しだけ目を伏せた。けれど、その瞳には濁りのない意志が宿っていた。
「……レオンと、一緒にいたいんです」
マスターの眉がぴくりと動いた。
「サラ。レオンくんは危険だ。それに、あの少年が見てるのは──」
「……分かってます」
サラの声は、ひどく静かだった。だが、弱さはなかった。
「それでも、助けられた恩は返したいんです。それに……あの夜、あの恐怖が、忘れられなくて」
あの手とあの声。レオンの、何も語らない強さ。あのときの自分の、何もできなかった無力さ。
「だから……私、強くなりたいんです」
誰に見せるでもない、ひとりきりの決意が、そこにあった。マスターはしばらく沈黙したあと、苦笑を浮かべた。
「あぁ。わかったよ。がんばりな」
「……ありがとうございます」
サラは深く、一礼した。守られるだけの自分から変わるために。学院で彼と同じ場所に立つために。




