第36話 小さな酒場 前編
グラスの中で、薄紅の液体が揺れる。
深夜に近い静かな店内。即興の軽快な旋律がかすかに流れる中、カウンター席に座る一人の青年がグラスを傾けていた。
「今日は……疲れた顔してるね」
カウンター越しに声をかけたのは、このバーのマスター。年季の入ったシェーカーを手に、レオンを気遣うような声色を乗せる。
「ああ、疲れた。いつものくれ」
短く答えたレオンの瞳には、昼間の学院で見せる“完璧な優等生”の影はなかった。そこにあるのは、張りつめた糸のような冷たさと、どこか滲む痛みだった。
「わかったよ」
手慣れた動きでカクテルを作るマスター。その手元を見つめながら、レオンはグラスを空にした。
「……あんたは、いつも独りで悲しい顔して飲むね。ここに来る他の客は、もっと楽しそうだ」
「飲んで、忘れたいだけだ」
淡々とした声音は、何を忘れたいのかまでは語らない。
「……あまり、思い詰めるなよ」
「……まあね」
「モテるだろ、あんた。遊んでないで、ちゃんと彼女でも作ったらどうだ?少しは気が紛れるさ」
レオンは無言でグラスを置いた。その瞳はどこか遠くを見ている。
「……まだ切れないよ。どうしても金がいる。……だから、やめられない」
「ふうん……そういえば、あの子とはどうなんだ?」
マスターがふと思い出したように言う。
「この前見かけた、小柄で赤い髪の……あの女の子だよ」
「あいつは……彼女じゃない」
短い沈黙が流れる。レオンはグラスを持ち直したが、口はつけなかった。
「でも、好きなんだろ?」
それには、答えなかった。だが、その沈黙がすべてを物語っていた。
「……この前入ったあの見習いなんて、どうだい。可愛いだろ?」
マスターがカウンター奥を指さすと、それに気付いた女が小さく首を傾げ、歩いてくる。
「どうしたんですか、マスター?」
「いや、お前も彼氏がいないって言ってたろ? ちょうどよさそうな青年がいるから、どうだいって話してたんだ」
「彼氏くらい自分で作りますってば!」
頬を膨らませながら、見習いの女がレオンの隣に立つ。
「マスターが、ごめんなさいね。……わぁ、綺麗な顔」
その目がレオンを覗き込みかけた瞬間、彼はふいと顔をそむけた。
「新人か」
低い声でレオンが尋ねる。
「昨日から働き出したばかりです。サラと言います」
「……ふぅん」
「えっと、お名前は?」
「名前、教える必要もないだろ」
問いかけにレオンは答えなかった。代わりに酒を一口飲み干す。
「レオンだ。カリグレア学院に通ってるよ」
代弁したのはマスターだった。
「えっ……カリグレア?魔術の超名門校ですよね」
サラが驚いたように声を上げた、そのとき、扉が軋む音と共に、入口が開いた。
「いらっしゃいませ」
マスターの声が響き、客の方へ視線が集まる。店の照明に照らされ、そこに立っていたのは、まだ幼さを残した赤い髪の少女だった。レオンの視線が、ゆっくりと彼女に向けられた。グラスの中で、氷がカランと音を立てた。
***
扉が開いて、夜の冷たい空気が差し込んだ。
「えっと……人を探してるんですけど」
控えめなその声に、レオンの肩がぴくりと動く。
「……レナ」
振り返った視線の先には、赤い髪の少女がいた。
「あっ、レオン……!」
ほっとしたような笑みを浮かべて、レナが駆け寄ってくる。
「この辺りは夜は危ないから来るなって言っただろ。何時だと思ってるんだ」
苛立ちを押し殺したような低音だが、その眼差しには焦りと安堵が入り混じっていた。レオンは立ち上がり、グラスを置くとレナの方へと歩み寄る。
「……もう何日も、寮に帰ってなかったでしょ?学校にもいなかったし……。ここは、レオンがよく来る場所だって、前に言ってたから……」
レナの言葉に、レオンは眉をひそめた。無言のまま、カウンターに金を置く。
「マスター、ご馳走さん。俺、もう帰る」
「おう。気をつけてな」
レオンはレナの腕をそっと掴む。
「帰るぞ。寮まで送る」
その手は、冷たくも優しい。だが、レナは小さく呟いた。
「……私も、飲んでみたい」
その言葉に、レオンの足が止まる。彼は軽く笑って、目を細めた。
「ジュースなら、今度飲ませてやる」
そう言って、扉を押し開ける。冷えた空気の中、二人は肩を並べて夜の街へと消えていった。
「……マスター、あの人、彼女いないって言ってたよね?」
カウンターの奥で、サラが不満げに呟く。マスターは苦笑しながら、グラスを拭う手を止めなかった。
「あの子は彼女じゃない。クラスメイトだそうだよ。……でも、街でもレオン君といるの、たまに見かける」
***
それからというもの、サラは何度も夜のバーでレオンを見かけるようになった。最初はただの客だったが、今ではカウンターの中でグラスを磨きながら、彼の顔を見ると自然と声が出るようになっていた。
「カクテル、作れるようになったから……飲んでみて」
少しだけ緊張した声で差し出すと、レオンは無言でそれを受け取る。グラスの中の色をじっと見つめてから、ひと口、ふた口と飲む。
「……へぇ。……この前よりマシになってんじゃん」
サラの顔がほころんだ。レオンの言葉はぶっきらぼうだが、確かに「不味くはない」と認めてくれている。それだけで十分だった。年齢が近いせいもあり、次第にふたりの会話は少しずつ増えていった。ときにはマスターを交えて、冗談を交わす日もある。
そんなある日の昼下がり。街中の石畳を歩いていたサラは、偶然にも前方から歩いてくるレオンの姿を見つけた。
「あら、こんなところで会うなんて偶然ね!」
笑顔で声をかけると、レオンは少しだけ驚いたような表情をする。
「……ああ、お前は何してるんだ?」
「私?買い物に来たの。それより──それ、何買ったの?」
サラの視線は、レオンが持つ紙袋へと向かっていた。高級感のある白い袋。さりげなく覗く包みに、サラの目が一瞬見開かれる。
「へっ、それって──今、王都で行列ができる宝飾工房のブローチでしょ!」
「お前も知ってるのか。へえ、店員に勧められたんだが、そんなに人気なんだな」
「いいなぁ……そんなのもらえる人、羨ましい。誰にあげるの?」
「……知り合いに。それじゃあな」
言い終わるや否や、レオンはその場を離れようとする。
「えー、待ってよ」
思わずサラが追いかける。急ぎ足の彼に小走りでついていくうち、いつのまにか街の広場へとたどり着いていた。石造りの噴水の前──そこには、先日バーで見かけた赤髪の少女がいた。陽の光に照らされ、柔らかなピンク色のワンピースがふわりと揺れている。あのときよりもずっと大人びて見える装いだった。サラは足を止めた。広場の木陰から、レオンと少女の姿をじっと見つめる。
少女を見つめながら──レオンが、笑った。
それはバーで見せる無表情の仮面ではなく年相応の、少し不器用で、けれど心の底から温かな少年のような微笑だった。
「……そっか」
サラの胸の奥で、何かがふっと静かに沈んだ。あの笑顔は、自分には向けられないものだった。
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