第35話 ある少年の失踪 後編
夜が明けた。
学院の寮棟に差し込む朝日が、カーテン越しに淡く部屋を染める。鳥の鳴き声が遠くから聞こえ、風が窓を優しく揺らしていた。ベッドの上、レナは眠そうにまぶたをこすりながらゆっくりと起き上がる。ふと周囲を見回すと、部屋は静かで、ソファにはレオンが腕を枕にして寝ていた。まるで誰かに“寄り添う”ようにそばにいてくれた。そんな安堵が、胸に広がる。
(……来てよかった)
レナはそう思った。まだカインのことは頭を離れないが、こうして誰かが側にいてくれた夜を超えられたことで、ほんの少し気持ちが軽くなっていた。
レオンの寝顔を見つめながら、彼がソファで寝てくれたことに気づき、微笑む。
(……優しいな)
その微笑は、昨日の涙の痕をほんの少しだけ拭い去っていた。やがて、レオンも目を覚ました。
「……おはよう、レナ」
「おはよう。ごめんね、ソファで寝させちゃって」
「気にするな。俺はどこでも寝られるから」
淡々としたその言葉に、レナは少し笑った。昨日の泣き顔とは違う、かすかな笑み。それを見て、レオンの胸に奇妙な感覚がよぎった。
(ああ……戻ってきた)
自分が奪われたくなかった“あの笑顔”が、ここにある。カインの隣ではなく、自分の隣に。“取り返せた”。そんな実感が、確かにレオンの胸を満たしていた。
***
その日の午後。
エリック・ハーヴィルは、学院の中庭で一人座っていた。
持ってきた菓子の包みを開けながら、ちらりと視線を上げる。レナは少し疲れたような、でも穏やかな顔だった。そして、少し離れた場所で、何事もなかったかのように立つレオンの姿があった。柔らかく、誰にでも同じように接する完璧な優等生の仮面。
(……なるほどね)
何かが起きたことは分かっていた。だが、確証はない。何の証拠もない。レナの様子に異変は見えない。本人も気づいていないのか、あるいは、信じたままでいるのか。
(“いなくなった”カイン君も、黙っていなくなるような奴には見えなかったし)
菓子の包みを指先で弄びながら、エリックは微笑んだ。
けれどその笑みは、警戒と冷静な観察者のものだった。
(あの男は、“持っていたいもの”のためなら……)
最後まで言葉にしないまま、そっと息を吐くとレナの背中を見つめた。
(……君が泣かされるのは、嫌だな)
小さな包みをレナに向けて手渡すため、彼はゆっくりと立ち上がった。
***
カインがいなくなる数日前のことだった。
薄暮が落ちる頃、学院の裏手にある魔術用品店の帰り道をカインは歩いていた。空は茜色に染まり、舗道に揺れる木の影が、どこか異質に長く伸びていた。
(今日も……レナと話せたな)
ただそれだけのことが、心の奥に灯る小さな火のようにあたたかかった。何をしてあげられたわけでもない。
だが、彼女が“普通”に笑えるようになれば──そう願って、毎日を重ねていた。
その帰り道、角を曲がった瞬間、不意に気配が変わった。
「……あれ?」
人気のない通路。いつの間にか周囲に人の気配が消えている。小さな違和感に首を傾げた時だった。
「よお」
振り返ると、そこに金髪の少年が立っていた。深い海のような眼が、じっとこちらを見つめていた。
「君は……」
言葉の途中で、背筋に冷たいものが走る。少年は笑っている。けれどその顔には、一滴の温度もない。
「なあ、お前さ。……最近、誰と仲良くしてた?」
その声は、まるで日常の延長にあるかのように、優しく響いた。
(──ああ)
カインは気づいた。この人は、“笑ってはいけない人”だと。
その瞬間、彼の中に何かが“終わった”。
それから先の記憶は、曖昧だった。風の音。鳥の鳴き声。ひとつひとつの感覚が、急速に遠ざかっていった。
最後に思い出したのは、レナの柔らかい笑顔だった。
***
誰もいない裏路地。冷たい風が吹き抜け、乾いた血の匂いがまだ微かに残っていた。
「……処理済みだ。証人も、記録も、何も残っていない。リゼの手配は相変わらず手際がいい」
レオンが手にしていたのは、証拠隠滅用に作られた焼却小箱。術式で封じて燃やせば跡形も残らない。中には血に濡れた布切れと、改ざん済みの“学籍記録の控え”が入っていた。カインは、もうこの学院からは転校という形で消されている。
(……転校、か)
小さく笑う。そう“処理”されたことになっている。実際は、転校先などどこにもない。
「……あの場所に立っていたのが、俺じゃないのが悪い」
そう呟きながら、レオンは手の中の小箱を火の中へと落とした。パチパチと、書類が燃えていく音だけが夜に溶けていく。
(レナは戻ってきた。なら、それでいい)
誰にも言わない。レナが傷つくこともない。この手を汚せば、それで終わる話だから。
奪い返したのだ、自分のものを。
「……おやすみ、カイン」
皮肉のように呟いて、背を向ける。静かな足音が、ゆっくりと街の灯へと溶けていった。




