第34話 ある少年の失踪 中編
数日前の帰り道。
「なあレナ、今日の授業、すごかったよな!あの魔道具、燃えすぎじゃなかった?」
カインの屈託ない声に、レナは小さく笑って「うん」と頷いた。穏やかな放課後。何気ない帰り道だったはずなのに。
(……あれ?)
カインは、一瞬、背後にぞわりと冷たい気配を感じた。振り向いても、誰もいない。けれど、それは確かに「何か」があったと、肌が覚えている。
「……気のせいかな」
カインは首を傾げ、再び歩き出す。寮の自室でカインはベッドに寝転びながら、ぽつりと呟いた。
「最近、誰かに見られてる気がするんだよな……」
小さな独り言。だが、その声に含まれるのは気のせいではない確信だった。
「恨みを買った覚えなんて、ないんだけどな……。俺、そういうの、苦手だし」
部屋の窓のカーテンを閉め、ランタンの灯を落とす。寮の屋根の影から、じっと動かずにこちらを見ていた“何か”の存在には、最後まで気づかないままだった。
***
数日後、放課後の教室は少し騒がしくなった。
「えっ、カイン、転校するの!?急すぎない?」
「本人はまだ来てないけど……今日の朝、荷物が全部引き上げられたって」
「先生も何も言わないし、なんか気持ち悪くない?」
ざわつく生徒たちの声。だが、それはすぐに日常の喧騒にかき消されていった。その日を境に、“カイン”という生徒の痕跡は、机も教科書も全て、学院から消えていった。
夕暮れの校舎裏、誰もいない中庭。石畳の上に座り込んだレナは、ずっと下を向いたままだった。そこへ、足音が近づく。
「元気ないな。どうしたんだ?」
そう言ったのは、いつものように涼しげな声のレオンだった。制服のネクタイを緩め、普段通りの穏やかな顔と優しげな眼差しだ。
「……クラスメイトのカインって子が、転校しちゃったみたいなんだ」
レナは、ぽつりと呟いた。
「何も言わずに、いきなりって。おかしいよね?」
レオンは少しだけ眉をひそめたが、その声色は変わらない。
「急な転校なら、仕方ないんじゃないか?」
「でも……本当に転校なのかな? ずっと気になってて、なんか、胸がざわざわして……。大丈夫かなって思うと、夜も眠れなくて……」
途切れ途切れの言葉と共に、レナの頬に涙が伝い落ちた。ぐしゃっと袖で拭っても、次の涙が止まらない。
そんな彼女を見下ろすレオンの表情から、一瞬だけ笑みが消える。まるで感情が抜け落ちたかのように、冷たい視線でレナを見つめていた。
だが次の瞬間には、優しげな口調が戻る。
「……夜、眠れないなら。俺の部屋に来てもいいよ」
その声はまるで、慈愛に満ちた兄のように柔らかかった。
「一人でいるよりは、いいだろう?」
レナは顔を伏せたまま、小さな声で呟く。
「……ありがとう」
その呟きを受けて、レオンの口元がほんのわずかに、笑った。その笑みは“優しさ”の仮面の奥で、何かを満たしたような、満ち足りたものだった。
***
その夜、学院の寮棟にあるレオンの部屋の前にレナは立っていた。扉をノックした音は控えめだったが、すぐに開いた。
「入って」
レオンは、パジャマ代わりのシャツ姿で、いつもより柔らかい雰囲気を纏っていた。室内にはほのかなランプの明かりと、紅茶の香り。レナは躊躇いながらも一歩足を踏み入れる。
「……ごめんね。急に押しかけて」
「気にするな。眠れないんだろ」
差し出されたマグカップを両手で受け取ると、レナはベッドの端に座る。レオンも隣に腰を下ろし、静かに言った。
「カインのこと、考えてたのか?」
「……うん」
レナは俯いたまま、ぽつりと漏らす。
「本当にいい子だったんだ。無理に話しかけてこないし、でも困ってると助けてくれて……一緒に学食でご飯食べたり、保健室にも付き添ってくれたりして。なのに、何も言わずにいなくなるなんて、おかしいよね……」
レオンは、カップを口に運びながら黙ってその言葉を聞いていた。
(……まだ、そいつのことを考えるのか)
胸の奥に冷たいものが湧き上がる。それをレオンは自覚していない。ただ、レナの言葉が耳に残って離れない。それでもレオンの顔には、一切の不快感は出ていなかった。穏やかな声で言う。
「……死んだわけじゃないんだから。また会えるよ」
レナは目を伏せたまま、小さくうなずいた。
「……寒いなら、こっちに来るか?」
そう言って、レオンは自分の隣の毛布を軽く引き寄せる。レナはほんの少し戸惑ったが、静かに身体を寄せた。一緒に毛布にくるまり、灯りの落ちた部屋に静寂が戻る。
レオンは、隣でかすかに震えるレナの体温を感じながら、ただ目を閉じた。このぬくもりが、誰にも奪われないように。
──次は、誰かが隣に来る前に、排除すればいい。
レナの涙がようやく止まり、ゆっくりと眠りに落ちていく。その寝息を聞きながら、レオンはまだ名前を知らない感情の輪郭に、気付かぬふりをしていた。




