第33話 ある少年の失踪 前編
魔物の討伐実習が終わって数日後。学院にはいつもの日常が戻りつつあった。午前の実技練習室。巨大な防御結界が淡く煌めくフィールドで、Eクラスの生徒たちはそれぞれ課題をこなしていた。
「レナ、こっち手伝ってくれる?」
声をかけてきたのはエリックだ。左腕にはまだ白い包帯が巻かれているが、その表情はいつものように朗らかだ。その笑顔に誘われて、レナは小さくうなずき、ゆっくりと歩み寄る。
エリックの隣に、見慣れない少年がいた。淡い栗色の髪が風に揺れ、優しい琥珀色の瞳が穏やかに曲線を描く。制服の裾から覗く手は白く細いが、指先は薬品のインクでわずかに染まっている。実験好きの証拠だろうか。
「彼、カインっていうんだ。魔術薬の調合、めちゃくちゃ上手いんだよ」
エリックが肩を軽く叩くと、少年は照れたように頬をかすかに赤らめた。
「えっと、はじめまして。僕は、カイン・アルヴェール。いつもエリックからレナさんの話、聞いてました。この前のC地区、大変だったんだよね。生きて帰ってきてよかったよ。怪我は大丈夫?」
カインの声は羽毛のように柔らかかった。
「は、はい。エリックが助けてくれて…。私はレナです。よろしくお願いします」
自分でも驚くほど、声がか細かった。けれどカインは否定も嘲笑もせず、ただ安心させるように微笑む。
「あの後お咎めなしで良かったね、エリック」
カインがエリックの方を向いた。
「まあなー。がっつり怒られたけどな!でも剣筋がいいって褒められたぞ」
エリックはにやりと微笑んだ。
その日の課題は「初級防護札の簡易調合」。エリックがにこにこしながら説明する横で、カインは小瓶の栓を器用に抜き、とろりとした白銀薬を匙で量った。
「この配分、少しだけ霊草の粉を増やすと安定するんだ。やってみる?」
彼は自分の筆記用紙の余白に即席のレシピを書き込み、レナへ差し出す。透明なインクが陽光を反射して、文字が淡く輝いた。
レナはおそるおそる粉を足し、札に薬液を垂らす。ぽん、と音もなく、札面に純白の紋様が花開いた。
「きれい……」
思わずこぼれたその言葉に、カインは「成功だね」と柔らかく笑った。小さな成功体験が胸に温かく灯り、レナの頬にも薄桃の色が差す。
実技室を出るころには夕陽が校舎の窓を朱に染めていた。エリックが先に資料室へ行くと言って手を振り、二人きりになった帰り道。カインはポケットから色とりどりの紙片を取り出し、レナに見せた。
「学食のポイント券……ベリータルトがまた入荷するって。よかったら一緒にどう?」
「……いいんですか?ベリータルト、好きなんです」
レナはパァッと明るく微笑んだ。カインは嬉しそうに首を傾げる。並んで歩く歩幅は、驚くほど自然にそろった。すれ違う風の匂いが、これから始まる小さな日常を予感させる。
そして、数日が経ったある日。
「今日も学食行く?放課後は魔術用品店行こう」
「うん、いいよ」
そんな会話が当たり前になった頃。その温かな時間を、冷たい視線が遠くから射抜いていることには、レナはまだ気づいていなかった。
***
「……」
魔術用品店の角、朽ちかけた看板の下で、レオンは立ち尽くしていた。
遠くに見える、レナの笑う顔。
隣で自然に話す知らない少年。
緩やかに流れる夕暮れの空気。
レオンの手がポケットの中でぎゅっと拳を握った。
(……誰だ、あいつ)
理屈ではわかっていた。パートナーも必要、友達も必要。
レナだって、学院生活を“普通”に過ごしているだけだ。
それでも、“あの場所に、自分はいない”という現実だけが、胸の奥を焼いた。
***
血の匂いが濃く立ちこめる部屋。依頼された標的は、裏で魔術薬の密売に関わる男だった。情報を吐かせた後、レオンはとどめを刺すだけのはずだった。
何かが壊れた。剣が振るわれた。何度も。何度も。何度も。
血飛沫が壁に、床に、天井に飛び散る。
原型を留めないほどに肉が裂かれ、骨が砕ける。
男が絶命しても、レオンは止まらなかった。
(──消えろ)
心のどこかが、そう叫んでいた。名前も知らない“あの少年”の姿を、レナの隣で笑っていた誰かの記憶を、この手で“全部、なかったことにしたかった”。
ふと我に返ったときには、レオンは剣を手に、血に塗れたまま、息も絶え絶えに立ち尽くしていた。
「……クソッ」
剣を床に落とし、手のひらを顔に当てる。感情が読めないほど冷えた瞳で、ただ──虚空を見つめていた。




