第27話 陰から見ている者
夕暮れの陽が傾き、商業区のにぎわいが一段落した裏通り。人気の途絶えた細い路地に、怒鳴り声が響いた。
「お前に幾ら貸したと思ってんだ、金も返さず逃げやがって!」
黒服の男が女の腕を乱暴に引いた。女は顔を伏せ、震えていた。
「こいつ、どうする」
もう一人の男が言う。
「回収させるしかないだろ。……誰だ、この女は?」
視線が、レナに向けられる。
「へえ、可愛い顔してるじゃん。楽しめそうだな。そいつも連れて行くか」
ぞわり、と背中を悪寒が走る。レナはじりじりと後ずさった。男が腰のあたりからナイフを取り出し、金属の冷たい光を路地に反射させる。
「抵抗すると、痛い目見るぞ」
逃げ道は塞がれた。
その瞬間——
ヒュッという風を裂く音と共に、男の手が跳ねた。
「ぐあっ……!」
黒服の男が、剣の一閃を受けて吹き飛んだ。レナの目の前に、エリックが立っていた。その表情は、いつもの温和なものではなかった。
「手を出すな」
その声には、鋼のような冷たさが宿っていた。もう一人の男が殴りかかろうとするが、それすら読んでいたかのように、エリックの剣がひるむことなく振るわれる。次の瞬間、地面に倒れ込むふたり。
——全てが終わるまで、ほんの数秒だった。
レナは呆然と立ち尽くしていた。
(……この人、強い。これが、Sクラス……)
レオンのような狂気や圧はなかった。けれど、無駄のない動きと確実に“制圧”する技術が、エリックの“本物”を物語っていた。
「レナ、怪我ないか?」
肩に触れられ、ようやくレナは我に返る。
「探したんだぞ……何でこんなところに……」
その時、エリックの視線がもう一人の女の子に向けられた。先ほどまで絡まれていた少女が、崩れるように地面に座り込んでいた。か細く震える肩。涙の跡が、頬に残っている。
「……誰?」
エリックの声が静かに響いた。
***
「……誰?」
エリックの声が路地裏に落ち、少女が顔を上げた。涙で濡れた頬に夕日が反射し、赤く染まっていた。
「私は……Eクラスの、マリー。隣のクラスよ」
嗚咽をこらえながら、彼女は震える声で名乗る。エリックはちらりとレナに視線を向けた。
「レナ、どういうことだ?」
返答するより先に、マリーが口を開いた。
「金貸しに追われてて……。レナさんに、お金借りようと思ってたら……巻き込んじゃった」
その言葉に、エリックの眉がぴくりと動く。
「はあ!?そんな無茶苦茶な……!」
マリーは怯むどころか、逆に強気になって続ける。
「だって、この子、私服だっていつも仕立てのいいのばっか着てるし、靴やアクセも高そうなのばっか。あたし、何回も見てるの。絶対金持ってるって。少しくらいいいじゃない」
「えっ、私、お金なんて──」
レナが反論しようとしたその時、エリックが片手でさっと制した。
(言うな。レオンの贈り物だって言ったら……火に油だ)
彼はマリーに向き直ると、淡々とした口調で言った。
「それでも、クラスメイトに金を借りようとするのは間違いだ。……覚えておけ」
マリーは舌打ちするように鼻を鳴らす。
「ちぇっ……エリックさんってば、何でこの子の肩持つの?Aクラスの男が貢いでるって、散々噂になってるのに。知らなかった?」
レナは思わず息を呑んだ。
「え……?」
「ねえ、もしかして……あんたも?レナさんに貢いでるの?」
嘲るようなその笑みが、レナの胸にチクリと刺さる。エリックの瞳がマリーをじっと見た。
「──それは、俺を侮辱したと受け取っていいか?」
その一言に、マリーがたじろぐ。
「じょ、冗談よ?冗談。あーあ、どうせならさっきの男たち、殺してくれりゃよかったのに。あんた、元Sクラスなんでしょ?」
「……俺は、無駄な殺しはしたくない」
その言葉が決定打となったのか、マリーはそそくさと立ち上がり、その場から逃げ去った。礼の一言もなく。
静寂が訪れた。エリックがふぅと長い息を吐く。
「……なあ、レオンって、そんなに色々お前に買ってんのか?」
問いかけは穏やかだったが、その奥には微かな苦笑が混じっていた。
「……う。うん。この前、服……五着まとめて買ってもらったような……。でも、私、欲しいって言ってないよ?」
エリックは微かに頷いた。
「わかってる。お前がそんなこと言う子じゃないってことも、レオンが人の言葉で動く奴じゃないってことも、ちゃんと理解してる。……けど」
言葉を切り、彼はやや遠くを見つめるように続けた。
「周囲は、そうは見てくれない。これから先も、きっと何度も傷つくことがあると思う。……レオンは目立つ。目立つのに、あいつは“レナの立場”なんか、考えていない。自分のしたいように、してるだけだ」
「……それは、そう、かもしれない……けど。でも……優しいところも、あるよ?……」
レナの声は、小さく震えていた。その言葉に、エリックは静かにため息をついた。
「はぁぁぁ……レナなら、そう言うだろうな。どれだけ酷いことがあっても、“優しさ”を見つけてしまうんだよなあ……。」
そう言って、彼はゆっくりと微笑んだ。
「どれだけお前が傷ついても、俺は側にいるからさ。それだけは、忘れないでくれ」
レナは、小さく、確かに頷いた。
***
淡い夕暮れが街を染める頃。人通りが途絶えた裏通りで瓦礫の影にひとり、レオンは立っていた。視線の先には、レナとエリックの姿があった。救い出された少女と、戦いを終えた騎士が微かに言葉を交わしている。レオンは、ひとつ深く息を吐いた。
(……さすがだな。無駄のない動きだった)
剣を振るう所作も、立ち位置の取り方も、Sクラスと言っても過言のないものだった。少し鈍ったかとも思っていたが、それは杞憂だったようだ。
(もしレナが傷ついたら、その時は俺が出ようと思っていた。だが……必要なかったな)
視線を少しだけ落とす。レナの肩に、エリックがそっと触れたのが見えた。瞬間、胸の奥がきしむように痛む。
(……俺が不在の時の、盾にはなれるか)
エリックは、レナを“守る”。だがそれは、俺が望む形とは違う。
(あの男は、優しすぎる。……理想を信じてる)
レナは、何も持っていない。身につけるもの一つすら、自分の意思で選ぶ余裕もない少女だ。
だからこそ——
(全部与えたい。着る服も、履く靴も、飾る指輪も。……全部、俺の選んだものにすればいい)
そして、どうせ与えるのなら、上質なものにすべきだ。貴族でなくても、金さえ稼げばどうにかなる。裏の依頼をこなせば、質のいい物を用意することくらい容易い。
(何もない空白の中に、俺が選んだもので埋め尽くしたい)
他人の色に染まるくらいなら最初から全部、俺が染めてしまえばいい。
(——エリック、喋りすぎるのが苛つくが……今は目を瞑ってやろう)
エリックの声が風に乗って届いた。レナの頬に浮かぶ、ほんの微かな笑み。レオンはそのまま、黙ってその場を離れた。静かに、足音を消すように。




