第20話 何も見なかったフリをした
夕食の買い物を終え、ふたりは学院の寮へ戻ってきた。夕暮れの光が窓から差し込む廊下を歩きながら、レナは紙袋を両手に抱え、そわそわとレオンの後ろをついていく。
(ここが……レオンの部屋。初めて入る……)
レオンが足を止めたのは、学院寮の一角にある一室。
見慣れたはずの廊下なのに、そこだけ空気がどこか異質だった。
ごく普通の木製の扉——に見えたのに、近づいた瞬間、レナの肌にピリ、と微弱な電流のようなものが走った。
(……え?今、何かが…)
ドアの周囲を包む、見えない“圧”があった。魔力の膜のような何重もの層が張り巡らされている気配に、思わず立ち止まる。
「……これ、結界……?」
思わず口をついた言葉に、レオンが振り返る。
「ん?ああ。気づいたか。数重に張ってある。侵入防止用だ」
「うわ……絶対本人しか入れないやつじゃん……」
レナは思わず引きつった笑みを浮かべる。
「どうかした?」
「いや、その……私の鍵でも、これ……入れるの?」
「大丈夫。あの鍵と、レナの魔力を組み合わせて認識させてある。他の人間が鍵を持ってても意味はない」
さらりと、当然のように言うレオンは、手にした鍵を鍵穴に差し込み、ドアを開けた。
——ガチャリ。
扉が開くと同時に、肌を刺していた結界の気配がふっと霧のように消えた。
(……セキュリティ、すご……!)
自分の部屋には、そもそも結界など張ったこともない。
これがAクラスの特権なのか、それとも……レオンという人間の“生き方”の現れなのか。中に入った瞬間、レナは思わず足を止めた。
「……広っ」
整然と並んだ本棚には高等魔術書がずらりと並び、色調の統一されたソファとテーブルが、生活感と品の良さを両立させていた。机の上には魔術構文の紙束や、封印済みの契約書が整頓されて置かれており、魔力の淡い光が時折ちらつく。
(私の部屋、何もないのにテーブルにお菓子とノートで散らかってるよ……!?)
思わず目が泳ぐ。
「ソファ、座ってていいよ」
「え、う、うん……」
ふわりと腰を下ろしながら、視線を奥の壁に向けた瞬間、レナはある“異変”に気づいた。
「……ねえ、こんなに広かったっけ?寝るところもないし……あれ、あの奥のドアって……?」
「Aクラスになって、隣の空き部屋をぶち抜いて拡張した」
「えっ……えええっ!?」
声が裏返る。学院寮は個室制のはずだった。
「許可は取ってる。Aクラス以上は、成績優秀者向けの上位寮に移るのが通例なんだが、俺は引っ越す気がなかった。だから学院に掛け合ったら、すぐに改装してくれた」
「……Aクラスってそんなに……」
「かなり無理を言ったが、俺だから通ったんだろ。普通は許可が下りない」
まるで当然のように言い切るレオンに、レナは改めて、目の前の“規格外”を実感するのだった。
「何か飲む? お茶でも淹れようか」
レオンは、いつものように淡々と、けれどほんの少しだけ優しい声音で尋ねた。湯を沸かし始めると、部屋の空気がわずかに落ち着いた。魔力を練り込んだ茶器に触れる彼の動作は、驚くほど手慣れていて、どこか静かな気品すら漂わせている。
(……すご。レオンって、家の中だとこんな感じなんだ……)
慣れた所作を見つめながらも、レナはそわそわと落ち着かず、視線を部屋中に泳がせた。
(……男の子の部屋に来たの、初めてかも……!)
ソファも、机も、きちんと整っていて、それでいてどこか戦場の指揮所みたいな雰囲気すらある。
(魔術構文の紙だらけ……意外だな、ちゃんと暮らしてるって感じ)
そんなことを思いながら、ふいに立ち上がった。
「あっ、ちょっと手を洗ってきていいかな?」
「ああ、奥。まっすぐ行って右側」
レオンは紅茶葉を蒸らしながら、振り返りもせずに答える。
廊下のように短い通路を抜けて、小さな洗面所に入る。
鏡と清潔な陶器の洗面台。周囲も整理整頓されていて、レナは思わず感心する。蛇口をひねって、流水で手を洗っていると、ふと視界の隅に“違和感”が映った。部屋の隅、やや陰になった場所に、無造作にゴミ袋が一つ置かれている。
(……ん?)
軽い好奇心でちらりと視線を向けたその瞬間だった。
──袋の口が、ほんのわずか開いていた。
その中に、赤黒く染みた“布の塊”が見えた。
(……え……?)
ぴくりと、手が止まる。思わず顔を近づける。半透明の袋越しに見えたそれは、
──真っ赤に染まった、服。
破れたシャツのようなもの。血液の乾いた色と、点々と付着した黒い染みがついていた。
「……っ!」
息を呑んだ瞬間、ドアの向こうから、レオンの声がした。
「ミルクは入れる?」
「え、あっ、うん……少しだけ……!」
慌てて水を止め、手を拭く。心臓が、どくどくと波打っていた。
(……なんで、こんな……)
誰かの服?レオンの?それとも──
(……聞けない)
問いかけたら、何かが壊れてしまうような気がした。レナはそっとドアを閉めて、何事もなかったような顔でリビングへ戻った。レオンはちょうど紅茶を注いでいるところだった。
微笑むでもなく、いつもの無表情。だがその姿が、少しだけ遠く感じた。
「ほら」
彼が差し出したカップは、ほんのりと湯気を立てていた。レナは、静かにカップを受け取る。
そして、何も見なかったふりをした。




