第16話 上機嫌の殺し屋
夜の裏通りの濡れた石畳に、鈍い銀色の月光が光っている。倉庫街の一角の、ひと気のない路地裏で、誰かの断末魔が短く響いた。
「──終わりだ」
レオンは倒れた男の喉元から刃を引き抜いた。その顔は冷たく、どこか満足げだった。
(……まあ、動きは悪くなかったな)
今日の依頼は、金貸しを騙して逃げ回っていた商会の使いだった。ただの逃亡者にしては護衛の質が良かったが、問題になるほどでもなかった。
レオンは淡々と男のポケットを探り、契約証書の写しと銀貨入りの袋を回収する。一つ大きく息を吐いて、夜風を仰いだ。
(……鍵、か)
ふと思い出す。夕方、レナの手に渡った銀の鍵。ネックレスの先で、彼女の胸元に小さく揺れていた。
(……無くすなよ、って言ったら、真面目に頷いてたな)
思い出すだけで、口元がわずかに緩む。それが「人を殺した直後」の表情であることに、本人は無頓着だった。
「レナの料理、栄養バランスもよかった。……次も頼もう」
独りごとのように呟くその声には、どこかのんびりとした調子があった。
そして次の瞬間──
レオンは手にした剣をくるりと回し、物陰に潜んでいた2人目の男の眉間に突き刺した。刃は風を裂き、骨を砕く音と共に沈黙をもたらす。
「……二人目か。まあ、予想通り」
地面に倒れたその死体を見下ろし、レオンは小さく肩をすくめた。それは淡々とした処理であって、それ以上の感情はない。ただいつもと違ったのは、その瞳に揺れていた、ごく僅かな“充足感”だ。
(今日の飯は、美味かった)
理由もなく満たされた心、それは、ほんの少しの“ぬくもり”を得た者の、危うい満足だった。レオンは殺した死体の足を引きずりながら、路地の奥へと消えていく。
その背に揺れる黒いコートと、夜気に溶ける小さな口笛。彼は今とても機嫌が良かった。
***
レナはいつものように教室へと入り、静かに席に腰を下ろした。鞄からノートを取り出し、準備を整えたその首元には、小さな銀の鍵が揺れていた。ネックレスのチェーンに通された鍵は、魔法の文様が細かく刻まれたものだった。
「……ん?」
隣に座っていたエリックが、ちらりと目をやった。
「そのネックレス……鍵か?」
「うん。レオンがくれたんだ」
レナはまるで“珍しいアクセサリー”を紹介するように、あっけらかんと笑って見せた。
その瞬間──
エリックの笑顔が、わずかに強ばる。
「……レオンが……くれた?」
「そうだよ。私がレオンの部屋で夕ご飯作るバイトすることになって、それで合鍵もらったの」
「……レオンの部屋で……夕ご飯……?」
言葉に詰まり、エリックは額に手を当てた。
「まだ、あいつと関わってるのか……」
「あれ、なにか変?」
レナは不思議そうに首を傾げる。
「いや、別に。ただ……深入りしすぎるなよ。あいつは、俺らとはちょっと……違う」
エリックは警戒の目でレナを見た。
「でも、優しいところもあるよ。料理、全部食べてくれたし、変なバイトしないで済むようにって気にかけてくれたし……」
レナは少し照れたように笑った。その笑顔を見ても、エリックの目は、笑っていなかった。彼の視線は、レナの首元にある“鍵”へと再び向けられる。
(あれは……ただの合鍵じゃない)
魔力の細工、文様の複雑さ、漂う気配。
それは、単なる“出入り自由”を意味するものではない。
(何かが、仕込まれてる。……あの男が渡すものなら、間違いなく)
そんな確信にも似た直感が、エリックの胸を刺していた。
「……レナ。困ったら、すぐ言えよ」
唐突にそう言った彼に、レナは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに柔らかく頷いた。
「うん、ありがとう」
けれどそのやり取りの奥にあったものに、レナはまだ気づいていなかった。
***
「綺麗な顔ね」
夜の闇の中、王都の外れにある貴族街の屋敷で、香油と酒の香りが混じった甘やかな空気のなか、レオンはゆっくりと衣服を整えていた。
ベッドの上では、年若い貴族未亡人がシーツにくるまり、名残惜しそうに彼の背中を見つめている。
「……いつもながら、綺麗な顔ね」
女はくすりと笑い、杯を手に持ったまま、まるで美術品でも眺めるような目でレオンを見た。
「それだけが取り柄だからな」
レオンは淡々と答え、無駄のない手つきでシャツを羽織った。鏡越しに女の目が合い、女は首を傾げた。
「ふふ……今夜は機嫌がいいのね。こんなに優しかったの、初めてじゃない?」
「そうか?」
レオンの手が一瞬止まった。だが彼は何も言わず、鞄を手に取り、女の枕元に置かれた金の袋を手にした。
「お金、多めにしておいたの…。また来てくれる?」
「……気が向いたらな」
レオンは女に背を向け、静かに部屋を後にした。
夜風が頬を撫でる。屋敷の外に出ると、街は眠りの底に沈んでいた。手の中にある金貨の重みだけが現実だ。
(……虚しいな)
ただ、それだけだった。何をしても、誰といても、結局は一人。他人の温もりも、褒め言葉も、触れてもすぐに消える。何も残らない。ただ“役割”をこなすように、“自分”を売って生きている。
(あいつの顔が、浮かぶ)
なぜか、ふいに思い出してしまう。嬉しそうに「また作ってもいいんだね?」と笑った、あの無邪気な横顔。
(報酬は得た。あいつに、何か買うか。)
レオンは、あの何もない部屋を思い出す。何もない、異常な部屋を。
(一緒に店に行って、選んでもらおう)
自然と口元が緩む。レオンは袋をポケットにしまい、夜の闇の中へと消えていった。足取りは軽い。だが心はどこまでも空っぽだった。
***
王都の高級ブティックの前にレオンはレナを連れてきていた。厚手のカーテンに遮られた静かな空間には、優美な装飾と香草の香りが漂っていた。レナは場違いな場所に迷い込んだ子猫のように、入口でそわそわしていた。
「……ほんとに、ここ?高くない……?」
「ここなら色々な服を売ってる」
レオンは無表情のまま歩を進める。奥に控える店員が一礼すると、すぐに背後の扉が閉じられた。
(……やばい、逃げ道が消えた)
レナは内心で悲鳴を上げつつも、レオンの後ろを小さくついていく。
棚に並ぶのは、王都仕立ての一級品ばかり。
細かな刺繍や魔繊布を織り込んだものもあり、彼女には到底手が出ないような値段ばかりだった。
「え、あの……私、普段は寮の制服で充分だから……」
「知ってる。だが、お前の服は、全部安物でサイズが合ってない」
レオンは振り返りもせずはっきりとそう言って、ためらいもなく数着の服を手に取り、レナの体にあてていく。
「……この赤、顔色が沈む。こっちの青にしろ。素材は魔繊布で。動きやすさ重視」
「え、えっと、でも、これすごい高いし──」
「……気にするな」
淡々とした口調のまま、レオンは服の山を抱えて試着室の扉を開ける。
「全部試せ。サイズは見ておく」
「いや、見ないで!?むしろ出てって!?」
レナが半泣きで押し返し、扉を閉める音が響く。
***
レオンは試着室の外、優雅なベルベットの椅子に腰を下ろして無言で腕を組んだ。
(……服を選ぶのに、こんなに神経を使うとは思わなかった)
それも悪くない。彼女が慌てる声や照れて笑う声、着替えた服で扉を開けて、見せるようにくるりと回る仕草。それら全てが自分に向けられたのだから。
(……鍵を渡した。あれは、確かな境界線だった)
自分が選んだ服を、自分の部屋の鍵を持った少女が着る。自分にしか向けない顔をもっと見たかった。
やがて、再び試着室の扉が開いた。
「……ど、どうかな」
レナが選ばされた青いワンピースを着て、そろりと姿を現す。一瞬、レオンの視線が僅かに動いた。だが、表情は変えないまま、短く呟く。
「……悪くない。買うぞ、それ」
「ま、待って、本当に!?いくらするか見た!?」
「見てるから心配するな」
「え、ええと……レオンの部屋でごはん三年作って返す……!」
「二年にしてやるよ」
淡々としたやり取りだった。その横で、レナは心底安心したように笑った。その笑顔に、レオンは何も言わず、僅かに口元に笑みが漏れた。
(ああ、悪くないな。金を稼ぐのに手段はいらない)
どれだけ穢れても構わない。彼女が綺麗なままでいてくれれば、自分はどこまでも堕ちてもいい。
──レナの首元では、銀の鍵のネックレスが、今日も小さく揺れていた。




