第15話 銀の鍵
レナとエリックは、風に吹かれながら中庭のベンチ脇で立ち話をしていた。
「次の課題さ……もし時間あったら、少しだけ見てあげられるかも。よかったらだけど」
エリックはどこか照れくさそうに、笑いながらそう言った。
「うん、ありがとう。助かるよ」
レナも、穏やかな声で微笑みを返す、その時だった。
「……」
石畳を踏む足音とともに、レオンが現れた。
「……楽しそうだな」
それは挨拶とも皮肉ともつかない、低い声だった。レナが振り向き笑顔を見せる。
「レオン……どうしたの?」
「いや、何でもない。ただ通りかかっただけだ」
さきほどまでの柔らかな昼の気配が硬くなり、エリックの表情も変わる。口元の笑みを消し、わずかに肩を張った。
「……よお。あんた、確かAクラスの――」
「レオン・ヴァレントだ。覚える気があるなら、どうぞ」
一見、穏やかな会話のように見えた。
だが、その視線の奥では、火花が鋭く交錯していた。
(……なんだろう、この空気)
レナはすぐにその“異質さ”に気づいた。二人の間に立たされていることが、明らかに“間違っている”と肌で感じる。
「先に行っててくれる?」
エリックがあえて優しい声で言う。
「……うん、わかった。それじゃ私、先に行くね?」
レナは気まずさをごまかすように背を向けて、その場を後にした。
彼女が中庭の角を曲がり、姿が見えなくなったその瞬間──レオンが言った。
「さっきの視線、気づいてないとでも思ったか?」
「隠してたつもりはないさ。……君みたいな奴に、隠しても無駄だろうしな。あの子に近づかないでほしいんだ」
エリックは真剣な眼差しだった。レオンはそれを見て、口元だけで笑った。
「理由は?お前の彼女か?」
「違う。……ただ、あの子は優しすぎる」
「……知ってるよ」
レオンの声が僅かに揺らぐ。エリックの眉が、ぴくりと動いた。
「だったら、離れてやれ。お前の周りには碌な噂がない」
「聞いたのか?」
「少しな。……裏社会の仕事、行方不明者、記録の改ざん。本当なのか?」
「そういうの、詳しいみたいだな。──元Sクラス、か」
「……」
その場が沈黙になる。
レオンは静かに瞬きをし、空を仰いだ。
「ただの噂だろう?」
レオンの声は淡々としていた。二人の間に、風が吹き抜けると沈黙と緊張だけが、そこに残った。
エリックは一歩も引かず、レオンを睨みつけた。レオンは微笑のような表情で、それを受け止めた。
***
中庭の角を曲がり校舎の影に入った瞬間、レナは歩みを緩めた。
(……なんか、変だった)
自分でも理由ははっきりしない。ただ、背中で交わされる声の調子、空気の密度、あの視線は、確かに「普通」じゃなかった。
(レオンのあんな顔、久しぶりに見た気がする)
あれは、エリックに対する警戒だろうか?何らかの誤解をしているのかもしれない。
(エリックも、笑ってたのに……途中から、目が変わってた)
いつもは柔らかい声で、冗談まじりに話す彼が、最後はまるで盾を構えるようにしていた。そんなことを考え出すと、足取りが重くなる。
(私はあの場にいるべきだった?間に立つべきか、立たないべきか……)
風が吹き抜け、制服の裾が揺れた。
***
レオンはレナの部屋の前に立っていた。数日前、部屋で食事でもどうかと誘われたからだった。レナが少し緊張した面持ちで部屋の鍵を開ける。
「……入っていいよ」
控えめなレナの声に導かれ、レオンは扉をくぐった。その瞬間、眉がわずかに動く。
(……何だ、この部屋)
思考より先に、感覚が異常を告げる。生活感というものが、まるで存在しない。
ベッド、備え付けの棚、机、そして片隅にあるミニテーブル。それだけ。装飾も、私物らしいものも、ほとんどない。カーテンは薄手の生成色で、光を遮る力も持たず、部屋の温度を感じさせない。
(……異常だろ。これじゃ、ただの“箱”じゃないか)
視線を巡らせた先、唯一、僅かに“色”を持っていたのは机の上の数冊のノートだった。
「散らかってるかも。ごめんね」
「……人が住んでるように見えない部屋だな」
レオンが呟くように言うと、レナは「えへへ」とだけ笑った。
「物が多いと、全部無くなった時のショックが大きいでしょ?何も持たなければ、何も失わない。…だからあまり何も買わないようにしてるんだ。まあ、支給金も少ないし、贅沢もできないからね……それより、ちょっと待っててね。夕飯、盛り付けるから」
彼女が奥の小さな簡易キッチンへ消えていく。レオンは無言のまま、ミニテーブルの横に腰を下ろした。
そして――ふと、目に入ったノート。
(……“エリック・ハーヴィル”?)
表紙の端に、丁寧な字で名前が書かれていた。何冊か、ページの端に付箋や折り目がついている。
(勉強ノート……か)
エリックの指導を受けているらしい形跡に、レオンの指先が、かすかに力をこめた。ページをめくることはなかったが、それだけで、心に不快なざわめきが生まれる。
(誰に教わろうと、勝手だ)
なのに、なぜか苛立ちが消えない。そのとき、良い香りと共に、レナが笑顔で戻ってきた。
「じゃーん、冷める前に食べて!」
木のトレイに乗せられていたのは、色鮮やかな料理たち。魔鳥のグリル、野菜のスチームプレート、薬草スープ。
「お前、料理できたんだな」
「ふふ、ちゃんと下準備したんだよ?普段ここまで作らないけど、せっかくだし」
レナは嬉しそうに微笑む。その言葉が、レオンの胸に静かに刺さる。
(この殺風景な空間に、こんなものを用意する奴がいるとはな)
心のどこかで、ぐらりと何かが揺れた気がした。
「おいしい?」
レナが期待を込めて聞いてくる。
「……まあまあだ」
レオンはそう答えた。けれど、スプーンは止まらなかった。レナは嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、レオンはふと、自分の胸の奥に広がる妙な違和感に気づく。それが何なのか、まだ分からなかった。
***
「ふふっ、全部食べてくれて嬉しいな」
レナは空になった皿を見て、少し誇らしげに笑った。食器を片付けているレナに向かって、レオンがふと口を開いた。
「……お前さ、俺の部屋でバイトしないか?」
「えっ?」
レナは手を止め、思わず振り返る。何を言われたのか、一瞬理解できずに目を丸くする。レオンは壁にもたれかかりながら、ポケットに手を突っ込んだまま続けた。
「材料費は全部俺が出す。バイト代も、少しなら払う。……作ったら一緒に食う、って条件でな」
「ば、バイトって……お金取れるレベルじゃないよ?」
レナはぽかんとして、すぐには答えられなかった。
「お前、どうせまた変なバイト探すんだろ。だったら俺の部屋で飯作ってくれた方がずっとマシだ。俺も助かる」
レオンはあくまで事務的に告げた。
「……私も一人で食べるよりは全然楽しいけど」
笑ったその顔は、どこか照れくさそうで、それでも嬉しそうで。
「じゃあ……また作ってもいいんだね?」
「ああ。……ただし、栄養バランス考えて作れよ。」
「うん!わかった。頑張るね」
レナは小さくガッツポーズをして笑った。その無邪気さに、レオンの口元がかすかに緩む。彼は黙ってポケットから何かを取り出し、レナに差し出した。
「これ、俺の部屋の合鍵。俺がいない時でも勝手に部屋に入って作ってくれればいい。……ネックレスにしてるから、無くすなよ」
レナは一瞬、戸惑いながらも、そっとそれを受け取った。
「……へえ、すごい。魔法で出来てる鍵だ…。こんなの、いいの?」
「いいよ、あくまで“バイト”のためだから」
レオンは視線を逸らし、平然と言った。
“理由”をつけた。正当化した。
そうすれば、彼女を傍に置いても──誰にも責められはしない。
「うん、わかった……大事にするね」
レナはそう言って、胸元で小さく握りしめた。その仕草を見た瞬間、レオンの胸の奥に、静かに熱が灯るのを感じた。




