第11話 本が怯える夜
アッシュの事件の後、数週間が経って落ち着いてきた頃。2人は屋上にいた。
風が強く、雲が早く流れていた。
レナはレオンの隣でいつものようにパンをかじりながら、ぽつりと呟いた。
「そろそろ、またバイトしようかなあって思ってて。パンばかり飽きたし」
「……ああ、そう」
レオンは興味もない風に答えた。
「今度は学院の図書館だから、変なことは起きないと思うんだよね。静かだし、本好きだしいいかなって思ってて」
「へぇ」
ただそれだけの会話として、レオンは流した。
***
静まり返ったカリグレア学院の図書館。
照明も届きにくい古書区域で、レナは黙々と本を整理するバイトをしていた。
「……この本、どこの棚だっけ……?」
古代語で書かれた革張りの重い書物を抱えながら、うっすら埃をかぶった通路を進む。
その時だった。
──バサッ。
背後で本が一冊、勝手にページをめくりながら宙に浮いた。
「え……?」
次の瞬間、まるで意思を持ったように、本がレナに向かって飛びかかってきた。
「っ──痛っ!」
肩に鋭く角が当たり、レナはよろけながら本を避ける。
それに呼応するように、周囲の本棚からも──バサ、バサバサバサッ、と数冊、数十冊の本が浮かび上がった。
(な、なにこれ……魔導書!?)
本たちはまるで獲物を取り囲む獣のように、レナを囲みながらゆっくりと動き始めた。
その中には、ページに呪詛の刻印が浮かぶものもある。
「や、やめて──!」
恐怖に声が震える。
一冊が歯のような裂け目を開き、まるで喰らいつこうとしたときだった。
その瞬間、図書館の扉が、静かに軋む音を立てて開いた。
足音がひとつ、響く。
「………………」
その足音が近づくと同時に、空中に浮かんでいた本たちが、ピタリ、とその場で動きを止めた。
まるで、そこに“何か”が入ってきたとでも言うように。
「っ……?」
レナは目を見開く。
本たちは震えながら、ひとつ、またひとつと動きを止め、まるで恐怖したようにバサリと床に落ち、あるいは、自ら本棚へと戻っていった。
それは、異常だった。
恐怖による沈黙が図書館を支配する。
そして、通路の先から現れたのは──
「……ああ、やっぱりな」
レオンだった。
「……本に喰われかけるバイトなんて、どこにあるんだよ」
レオンは呆れたように言いながら、レナのそばまで歩み寄る。そして、まだ棚に引っかかったままの一冊に視線を向けた。その魔導書が、ビクリと震えた。
「──そいつに怪我させたら、焼くぞ」
淡々とした、しかし氷のように冷たい声だった。
魔導書はかすかにページを揺らすと、恐る恐る本棚に戻った。
「……レオン?」
「お前、ほんと……変な才能あるよな。バイト先が碌でもない才能」
肩を叩きながら、レオンは小さく呟いた。
レナは力が抜けたように、その場にへたりこむ。
レオンはレナの肩を軽く押さえて、そっと血が滲んでいないか確認した。
ふと、青い瞳が彼女をじっと見つめる。
「喫茶店に、本に食われかける、か。次は何するんだろうな?」
「まっ!まともなバイトに決まってるでしょ!!」
彼女はそれでも諦めていなかった。
***
レナが疲れた表情で寮に戻ると、ちょうど階段の踊り場に金髪の少年が寄りかかっていた。
「……またいたの?」
レナが呆れ気味に言うと、レオンはポケットから何かを取り出して、無言で差し出した。
「何これ……カード?」
「学院外部購買部で使える。食料用支給クレジットだ。受け取れ」
「え、ちょっと、こんなの──」
「バイトするたびに命かけられてたら、見てるこっちが面倒だ。さっさと使え。使い切ったら補充もしてやる」
「……そんなの、もらえないよ」
「受け取れ」
「……」
レナはしばらくカードを見つめていたが、やがて小さくつぶやいた。
「……ありがとう」
レオンは答えずに踵を返すと、寮の影に消えていった。
レナは、手の中のカードを握りしめた。
***
昼休みの屋上。
風が柔らかく吹いている。
いつものように屋上の柵にもたれていたレオンの隣に、レナがちょこんと腰を下ろす。
「ほら、見て」
彼女が小さな紙袋を掲げて見せた。中には温かそうなパン数個と、スープのパック。
「今日、外部購買部行ってきたんだよ。あのカード、ちゃんと使えた。……ありがとう」
レオンはわざと視線を外しながら言った。
「……礼はいい。またパンかよ」
「いつもより高いの選んだんだよ」
レナは袋から一つ、ふわふわしたパンを取り出して、嬉しそうにかじる。
「──おいしい」
無邪気な笑顔だった。心から「嬉しい」と言っている顔。
レオンはその横顔を一瞥し、鼻を鳴らした。
「購買のパンなんてどれも似たようなやつだろ」
「うん、でもおいしい。こういうの、ちゃんと食べられるの久しぶりだから」
「……」
(こいつ、本当にどこまで“普通”を知らないんだ)
「今度、レオンの分も買ってくるね」
「いらねぇよ。勝手にしろ」
レナはくすっと笑って、もう一口、パンを食べた。
その日、レオンはなぜか昼の授業に遅刻した。
屋上にいすぎたからだった。
***
木漏れ日が差すベンチに、レナは魔術書を開きながら、別の冊子をパラパラとめくっていた。
「求人案内──平日午後・接客可・年齢不問……って書いてあるけど、これ、前のとこもそんな感じだったよね」
そう呟いてため息をついたところへ、レオンが現れる。
「まだバイト探してんのか」
「うん……Eクラスじゃ支給金が生活ギリギリレベルだからね。いろいろ調べてるんだけど、まともなとこって少なくて。年齢的に無理とか、保証人が必要とか……」
レオンは座ることもせず、上から言った。
「当たり前だ。大体、14歳じゃ“まともなバイト”はない」
「……うぅ。もうすぐ15歳だけど」
「それでも、だ。保証人もいない、保護もない、学院からの支給金は最低──学院の孤児向け寮生が外でまともな所で働こうなんて、本来想定されてないんだよ」
「……それは分かってるけどさ。なんとかしたくて」
「“なんとか”の結果が、喫茶店の変態店長と、密輸倉庫と、本に喰われかけとか、才能あるんじゃないか?」
「うぅぅ……それ言わないで……」
レナは項垂れながら求人誌を閉じる。
「しばらく、もうバイトやめとく」
「それが正解だ。ようやく現実見たか」
「……レオンの冷たい言い方、たまに刺さる。でも、心配してくれてありがとう」
レナの笑顔に、レオンは何も返さずそのまま歩きだした。




