第9話 倉庫への誘い
※この話には一部に残酷な描写を含みます。苦手な方はご注意ください。
放課後、学院の門前。
「ねえ、レナちゃん」
アッシュが手を振りながら近づいてくる。柔らかい笑顔。いつもの、誰にでも好かれる優しい声だった。
「今日、放課後空いてる? ちょっとだけ寄り道しない?」
「……寄り道?」
「最近、街に新しい古書店ができたらしくてさ。魔術書も多いらしいんだ。君、興味あるかと思って」
「あ……うん、本屋か。うん……」
言い淀みながらも、レナは頷いた。
(ただの本屋だし、行ってみようかな……)
ほんの少し、気を緩めたつもりだった。
けれど、その一瞬が、地獄の扉になることを、レナはまだ知らなかった。
***
校舎の陰から、レオンはアッシュの背中を無言で見つめていた。
2人のやりとりは、声こそ聞こえなかったが、表情と雰囲気で大まかな内容は察せた。
(……また誘ってやがる)
アッシュの笑みには、どこか嘘があった。
整いすぎた表情。柔らかすぎる物腰。すべてが“人間くささ”を持たない。
(本屋、ね……)
その瞬間、レオンの足は自然と動き出していた。
何かが起こる気がした。直感が警告していた。
レオンは人気のない通りに入り、静かに尾行の体勢に入った。
距離を保ち、足音も影も消すように。
──その日の夕方、レオンの瞳に映るのは“古書店”ではなく、荒れた倉庫の扉と、どこまでも冷たい沈黙だった。
***
古書店に行くはずだった。
なのに、辿り着いたのは街の外れの廃倉庫だった。
「……ここ、本屋じゃないよね」
レナは足を止めて、隣を歩くアッシュを見上げた。
だが彼は笑顔を崩さずに、扉を軽く押し開ける。
「大丈夫。ちょっと寄り道。ね、君も古いものが好きでしょ?」
その笑顔には、いつもと同じ優しさが宿っていた。
倉庫の扉が軋む音を立てて開かれ、レナは一歩足を踏み入れた。
その瞬間──
「……っ、なに、これ……」
鼻をつくのは、鉄と腐臭の入り混じった臭気。
暗がりに慣れた目に映るのは、異様な“展示”。
天井から吊られた無数の女性の亡骸。
逆さ吊りにされたその体からは、血が垂れ、乾いていた。
誰一人として目を閉じていない。
瞳は見開かれたまま、無念と苦痛の色を残していた。
「……うそ……」
背筋が凍る。手が震える。
呼吸が浅くなり、心臓が喉の奥で暴れ出す。
「……なんで……なんで、こんなことを……?」
絞り出すようなレナの声。
その隣で、アッシュが穏やかな声で囁いた。
「なんでって……君、本当にわからないの?」
彼は首をかしげながら、ゆっくりと振り返る。
その目は、凍った湖のように冷たく。
口元には、愛しげな笑みが浮かんでいた。
「単なる快楽だよ。それ以外に、理由なんてある?」
「…………」
レナの視界が揺れる。
手のひらに、冷たい汗が滲む。
「君も、すぐに――この女たちと一緒になるからさ」
そう言って、アッシュは一歩、レナに近づいた。
そして、恍惚とした目で囁く。
「怖がる顔も、震える声も……可愛いね、レナちゃん」
その瞬間、レナは理解した。
この男は、人間ではない。
感情を演じ、表情を模倣する――化け物だ。
倉庫の扉は閉ざされた。
外には誰もいない。
(誰か……誰か……助けて――)
けれど、叫びは声にならなかった。
誰も知らない場所で、誰も知らない悪意が、牙を剥こうとしていた。
***
レナは息を切らしながら、血と鉄の匂いに満ちた倉庫の通路を駆け抜けた。
天井から吊るされた遺体の間を縫うようにして逃げ惑う。その度に遺体が揺れる。苦悶した表情がちらりと見える。現実のものと思えない程だった。レナにはゾッとする余裕はなかった。逃げなければ、同じ運命を辿る。
「ねえ、動かないでよ。もっと綺麗にしたいだけなんだよ。君は“作品”なんだから」
背後から、どこまでも楽しげな声が響いた。
アッシュが、余裕の足取りで距離を詰めてくる。彼の顔には、微笑が浮かんだままだ。
「学院にいた猫、覚えてる? 白くて、よく懐いてたやつ。
あれもさ、作品の一部にしてあげたんだよ?君がよく可愛がってたのを見てたから」
レナは振り返る。震える声が、喉の奥から漏れた。
「……あなたが……やったの? 酷い……」
「そうだよ。そろそろ体力なくなってきたんじゃない?女の子は脆いからね」
レナは肩で荒く息をしながら、血走った目で倉庫の奥を睨む。
手足は鉛のように重く、もう、どこにも逃げ場はなかった。
(……ここで、終わり……?)




