第100話 助けた者
旧校舎の渡り廊下の影に寄りかかりながら、オルフェはその光景を腕を組んだまま眺めていた。
レナが引きずられ、暴力を受けている。ただ耐えている。
(──なぜ、使わない)
血の魔術を使えば、こんな連中一瞬だ。
なのに、彼女は動かない。
オルフェは首を傾げた。
思っていたより、レナの行動は”人間”だった。
戦わない。声を上げない。強さを使わず、普通の少女のように痛みに耐えている。
興味があった。
この矛盾を持った少女が、次にどう動くのか。
紫電が弾けるたび、レナの身体が後退する。
相手の制御が雑だ、とオルフェは即座に判断した。
(馬鹿げてる。あの研究施設を破壊するほどの魔法を撃った君が……こんな安い挑発で震えている?なぜ反撃しない? なぜ判断がここまで遅い?)
今度は軌道が違った。側頭部。
「……制御が甘いね」
声と同時に、空気が一層、張り詰めた。
オルフェの指先が静かに動く。見えない結界が、飛んできた魔術をその場で縫い止め——霧散させた。
白銀の髪を揺らしながら影から歩み出たオルフェを見て、上級生たちは蒼白になる。
「S、Sクラス……? なんで……!」
「その魔術は授業範囲外。抵抗できない相手に使うのは“実技違反”だ。……理解できる程度の頭はあるはずだが?」
オルフェは微笑んだまま、指を鳴らす。
その瞬間、空気が沈み込むほど重くなった。
「ひっ──!! ご、ごめんなさい!!」
転がるように逃げ去っていく背中を、オルフェは見送りもしなかった。
オルフェは呼吸の乱れたレナの前へと歩み寄る。
「……怪我は?」
「ない、と思う」
「思う、では困る。見せろ」
レナが差し出した手首を、オルフェは指先で軽く触れて確かめた。
「……問題ないな」
そう言って、手を離す。沈黙が落ちた。
レナはオルフェの横顔をそっと見る。
「……オルフェ、ずっと、見てたよね」
「ああ、ずっと見てたよ。君が判断するまでの時間を、測っていた。血を使うか、逃げるか、それとも別の選択肢を取るか」
「……実験みたいに言わないでよ」
「実験だよ」
レナは目を伏せる。
その隙間から覗くオルフェの瞳は、まるで実験素材を見る学者の光だ。
「追い詰められれば、君は戦うと思っていたよ。血を流して、ここにいる全員を消し飛ばすのかと。でも君は……躊躇した。理解できない」
「……誰かを傷つけたくないから。で、でも本当に危なければ使うよ」
「判断が遅い。あれは頭部に直撃していた。君、本当に戦い慣れてないね」
そう言って、くるりと背を向ける。
去るでもなく、歩幅をゆっくり合わせるように歩き出す。
「学院に戻るなら送ろう。足がふらついてる。これ以上君が壊れると困るんだ」
「……困る?」
「素材として、ね」
冗談にも優しさにも聞こえない。
けれど、そこには確かな“興味”が残っていた。
レナは複雑な顔で頷いた。
***
放課後の職員室。その奥。
外界から切り離されたような薄い光が差すだけの面談室には、しんとした空気が沈み込んでいた。
灰色の壁。
冷たく光る長机。
そこに──三人の上級生が並べられた椅子に座らされていた。
さっきまで旧校舎裏で見せていた強気は影もない。
肩は小刻みに震え、指先は膝の上で固まったまま。
視線は床から一度も上がらない。
対面にいる二人の教員は、無表情に書類をめくり続けていた。
カリ、と紙の端が擦れる音が、妙に響く。
「……魔術の無断行使。暴力行為。複数生徒への加害行為。
どれ一つとして軽いものではない」
粛々と告げられる言葉は、誰の感情も乗っていない。
ただ“事務的に”罪状だけが積み上げられていく。
「さらに、Sクラスの生徒が介入して収束させた。
……これは、君たちにとって幸運だったな」
一人の教員が淡々と告げた瞬間、三人の上級生の喉が同時に鳴った。
視線だけで──圧力が刺さっていたからだ。
教員の視線が僅かに横へ滑る。
そこには、レナの隣に立っているオルフェがいた。
彼は席にも座らず、ただ壁にもたれながら腕を組み、三人の上級生を見下ろしていた。
その目には、情けも慈悲もなかった。
「……な、なんで来てるんですか、Sクラスの方……」
怯えた声に、オルフェは小さく首を傾け、微笑みと呼ぶには冷たすぎる曲線を浮かべた。
「報告者として。当然だろう?」
その声は澄んでいるのに、底は黒い。
「次に同じことをしたら、“学院の処分”じゃ済まないかもね」
面談室の空気が、凍りつく。
上級生の少女たちは声も出せずに顔を伏せ、誰かが小さく嗚咽を漏らした。
***
翌日の昼休み。
Sクラスの教室では窓際でジークが椅子の背にもたれ、隣のエルマーに声をかけた。
「昨日の話、聞いたか。Eクラスの子が裏手で絡まれてたって。オルフェが止めたらしい」
エルマーが眉を上げる。
「オルフェが? あいつが他人のために動くとか、珍しいな」
「有り得ねえよな」
ジークが苦笑する。
「あとさ、教務局に正式に上がったみたいだ。オルフェが自分で報告したって」
「マジかよ。あいつ、そういうことする奴だっけ?」
「しないだろ。だから余計に気になる」
マリアンが爪を磨きながら、聞くともなしに口を挟んだ。
「オルフェが気にする相手、ねえ」
教室の隅で、レオンは黙って座っていた。
窓の外を見ている。表情は読めない。
ジークの話が耳に入った瞬間から、指先だけが少しずつ動いていた。机の端を、爪が削るように辿っている。
Eクラスの子。
名前は出ていない。
出ていなくても、分かった。
胸の奥で、何かが軋んだ。
レオンが立ち上がった動きは静かだったのに、教室の空気が一瞬で変わった。
壁に立てかけてあった学院支給の模擬剣を、無言で取る。そのまま、オルフェの席に向かって歩いた。オルフェの席に視線を向けると、本人は机で淡々と何かを書いていた。
学院支給の模擬剣が振り下ろされた。
机が、縦に割れ、床へ崩れ落ちる。
教室が一瞬で静まり返った。
レオンは剣を肩に担ぎ、オルフェを見下ろした。
「……レナを、お前が助けた?」
冷たく、静かに沈んだ声。
オルフェはペンを持ったまま淡々と答えた。
「何かいけなかった?」
「彼女を守れなかったのは俺の落ち度だ。
だが──お前の手を借りた事実が癪なんだよ」
「だったら何? 俺は君の代わりに助けただけだ。
事実、彼女は致命傷もなく帰っていただろう?」
レオンの喉が小さく鳴った。
「……あいつに触れるな」
オルフェは一拍だけ沈黙し、そして笑った。
「今度またあの子が狙われたら……
今度は君が間に合うといいね、レオン」
数秒の沈黙。教室の誰も息をしていなかった。
レオンは剣を下ろし、背を向けた。
足音だけが教室を横切り、扉が閉まった。
残されたSクラスの教室に、静寂が沈んだ。
割れた机。散乱した書類。
そして、微笑みを崩さないオルフェ。
ジークが深く息を吐いた。
「……あいつ、本当に危ねえなあ。あれがAクラスまで優等生だったって? 今まで、猫被りにも程があるだろ」
エルマーが黙って頷いていた。




