第98話 突き刺さる視線
「おっはよー!」
明るい声が弾けた。サラが手を振りながらレナに近づいてくる。いつもと変わらぬ調子で、教室の空気に少しだけ陽を射した。
「おはよう」
レナは微笑みながら答えると机へ向かい、引き出しを開けた。
カバンからノートを取り出して――そのまま、手を入れた瞬間。
――チクリ。
「……痛っ」
指先に、鋭い痛み。
慌てて引き抜くと、血の粒が浮かんでいた。
引き出しの底には、細い透明の結晶針がいくつも散らばっている。
その下、焦げたような紙片が覗いた。黒い線が走り、かすかに魔力の残滓が揺らめく。
焼け焦げた呪符の切れ端――。
「えっ、なに!? 怪我したの!?」
サラが慌てて駆け寄る。
「……うん、でも大丈夫。ちょっと刺さっただけ」
レナは苦笑を浮かべながら、そっと指を押さえた。
だが、針の先からじわりと鈍い熱が広がっていく。
サラが引き出しの中を覗き込み、息を呑む。
「……なにこれ。誰か、入れたの?」
教室のざわめきの向こうで、誰かの笑い声がした。
レナは振り返らない。
ただ、痛みよりも冷たいものが、胸の奥に落ちていった。
サラの顔色が変わった。
「大丈夫じゃないよ。これ、完全に……」
言葉を飲み込み、サラはレナの手首を掴んだ。強くはない。けれど、逃がさない力だった。
「教務室、行こ。今すぐ」
「え、でも……授業、すぐ……」
「授業より指。あと、これ放置したら次もやる。絶対やる」
サラは引き出しの中の透明な結晶針を、ハンカチで慎重につまんだ。
焼け焦げた呪符の切れ端も、紙片のまま折り畳む。魔力の残滓がまだ微かに揺れている。
教務室の扉を叩く。
中の空気は、紙とインクと、疲れの匂いがした。
「失礼します」
サラが一歩前へ出る。
机の列の奥、書類の山に埋もれている教員に声をかけた。
「先生。今、レナの机の引き出しに針が入ってて、刺さりました。あと、呪符みたいなのも……これ」
ハンカチに包んだ結晶針と、紙片を差し出す。
教員は視線だけを動かし、面倒そうに眉を寄せた。
「……針?」
指先でハンカチの端をめくり、ちらりと見て、すぐに戻す。
まるで、汚れに触れたくないみたいに。
「誰かの悪ふざけだろ。落としたんじゃないのか」
「落としたって、引き出しの底に……しかも複数です。透明で、わざと隠してるみたいで」
サラが食い下がる。
でも教員は、椅子の背に体重を預けたまま、ため息をついた。
「サラ。今、こっちは手が離せない。午前の教務会議の書類もあるし、午後は演習の監督だ」
「でも――」
「怪我は浅いんだろ」
教員の視線が、ようやくレナに向く。
その目には心配より先に、値踏みが混ざっていた。
「血が出ただけで大騒ぎされてもな。Eクラスは、少しのことで騒ぐから困る」
レナの喉が、きゅっと縮む。
自分が痛いのは指先なのに、胸の奥の方が痛くなる。
「……すみません」
小さく言った。
謝る必要なんてないのに、口が勝手にそう動いた。
教員は机の端を指で叩き、会話を閉じにかかる。
「とにかく、次から気をつけろ。引き出しは確認してから手を入れる。以上」
教務室を出ると、廊下の空気が冷たく感じた。
「なによ、アイツ! 超素っ気ないし」
サラが怒りながら歩く。足音がいつもより大きい。
握り締めた拳が白くなっている。
「この一回だけならいいけど──」
レナは嫌な予感がしていた。
「……これで終わるわけがないよね」
「うん。終わらない」
サラは即答した。
怒っているのに、声だけは妙に落ち着いている。
「Eクラスって、実力があってもここから始めないといけないでしょ。色んな事情の子が集まるから……素行が悪いのもいるって、エリックが言ってた。気をつけなよ」
***
翌朝。レナが校舎を歩くだけで胸がざわつくようになった。
誰かの視線だけが肌を撫でていく。
振り返っても、笑い合う生徒がいるだけだった。
それが逆に、薄気味悪かった。
席に着き、鞄を机の横に置く。
いつも通りに教科書を取り出そうとして――指先が止まった。
(……なに、これ)
革の表紙が、裂けていた。
糸綴じの背がほどけ、紙がばらばらに波打っている。
濡らしてから無理に引きちぎったみたいに、端が毛羽立っていた。
ページをめくる。
文字の上に、赤黒い滲みが乱雑に塗りつけられている。
《かえれ》
《Eクラスの出来損ない》
《レオン様の玩具》
乾いた血のようにざらつき、爪で引っ掻いた跡が残っていた。
「……っ」
声が出るより早く、背後で小さな笑い声が弾けた。
振り返れない。
「わ、ほんとにやられてる」
「Sクラスのレオン様が荷物持ちしてたんだって」
「信じらんない。Eクラスのくせに。天罰なんじゃない?」
笑い方は軽いのに、言葉は鋭く刺さる。
レナは振り返れず、ただ破れた紙を指先で押さえた。
理由は、薄々分かっていた。
今までだって、何度もこんな悪意は向けられていた。
何もしていなくても。弱さは敵意を増幅させる。
慣れているから大丈夫だ、と、レナは思いたかった。
授業が始まる。
魔力操作の実技に集中しようと深呼吸した。指先から魔力を流し、術式を展開しようとしたその瞬間――。
魔力が、勝手にねじれた。
「……え?」
制御しているはずの光が脈打ち、机の上で跳ね上がる。
机の縁に、微細な導魔刻印が脈打っていた。
バチッ、と火花が走り、机が焦げた。
「ちょっと!」
「危ないんだけど!?」
前の席の生徒が椅子ごと後ろに下がった。
隣の机にいた男子が、腕で顔を庇う。
教室がざわつく。
何が起きたのか分かっていない顔、眉をひそめる顔、そして――薄く笑う顔。
先生は眉をひそめつつ、「続けろ」と淡々と言うだけ。
「……また失敗?」
「落ちこぼれに、魔力制御できるの?」
後ろの席から、わざとらしく吐き捨てられた。
胸がぎゅっと掴まれたみたいに痛んだ。
レナは唇を噛み、視線を落とした。
魔力が震えている。感情に反応して、制御が揺れてしまう。
ただの嫌がらせじゃない。
術式に細工されていた。
授業が終わった。
教科書を片づける手が、まだ震えていた。
鞄に破れた教科書を押し込んで、早く教室を出ようとした。
廊下に出た瞬間、肩に硬いものがぶつかった。
「ごめーん。気づかなかったわ」
すれ違いざまに投げられた声。
振り返った先の目には、悪意しか入っていなかった。
視界が、揺れた。
涙はまだ落ちていないのに、頬だけが熱かった。




