第97話 私、生きてるかな
「……それは、俺とも離れるってこと?」
レオンの低い声。
レナははっとして顔を上げた。
冗談とも怒りともつかない――けれど、確かな寂寞を含んだ声だった。
「卒業しても……なんとなくレオンとは会ってそうな気がするけど」
「けど?」
「……私、生きてるかな?」
その言葉に、レオンの目がかすかに見開かれた。
思考が止まる。
彼女の言葉が胸の奥で静かに爆ぜる。
レナは、そんな彼の反応に気づいて、慌てて笑顔を作った。
「だ、大丈夫だよ! このまま血のことを隠して生きれば、きっと普通にやっていけるから!」
言い聞かせるように、早口で続ける。
「将来ね、ちゃんとした仕事がしたいなって思ってて。たとえば、薬草の調合とか……小さな薬屋さんとか、いいなって。街の隅っこの、目立たないところで、毎日同じことをして暮らすの」
レナは、カップの温かみを両手で確かめながら言った。
夢というには小さすぎる話。
でもそれが、彼女にとって夢だった。
「お客さんが来てくれて、ありがとうって言ってもらえて。猫でも飼えたらもっといい。静かな夜に、一緒に寝るの……そういうの、いいと思わない?」
微笑みながら語る横顔は、やわらかかった。
脅かされた日々の記憶とは、遠い場所を見ていた。
レオンは黙って、その言葉を聞いていた。
一言一言が、胸の奥の何かに引っかかる。
薬屋。街の隅。目立たない場所。猫。静かな夜。
どれひとつとして、そこに自分の名前はなかった。
思考が、止まった。
ドーナツの皿を見つめたまま、レオンは指先に力を込めた。
彼女が描く未来は、彼女一人で完結していた。
レオンは、低く息を吐く。
「……俺は?」
レナは一瞬きょとんとして、それから困ったみたいに笑う。
「え、だって……レオンは、もっとちゃんとした場所に行けるでしょ。私みたいなのが隣にいたら、足を引っ張るもん」
「……血のことを完全に隠して生きられると思うか」
責めているわけではなかった。
ただ、口から出た。
レナの表情が、わずかに翳った。
「……わかってる。難しいのは、わかってる。でも、諦めたくないんだよ」
静かな声だった。
ただ真っ直ぐに、それだけが彼女の芯にあった。
レオンは、何も言わなかった。
レナはドーナツをひとかじりして、思い出したように顔を上げた。
「ね、ねえレオンは? レオンは将来どうするの? 進路!」
わざと明るく話題を切り替える。
「俺は……」
レオンはしばし黙り、カップの縁を指でなぞった。
「軍に入ろうとも思ったが、上層部の腐敗が嫌でやめた。研究をするつもりもない。この学院を足掛かりに、どこに行くかはまだ分からないな」
「えっ、もったいないよ。この学院中立機関だし、どこの国家機関の要職でもいけるんじゃないの? ほら、隣のヴァルグレイス帝国とか大国だし……」
その名を出した瞬間、空気が凍った。
レナは気づかない。レオンの肩がわずかに強張ったことに。
彼の手が、無意識にカップの取っ手をきつく握る。
「あの国の公爵家に仕えるだけでも名誉なんでしょ? 名前忘れたけど、すごい家系の……」
それは、何気ない一言のつもりだった。
彼はゆっくりと視線を上げ、レナを見た。
「名誉、ね」
その声は笑っていた。
けれど、その笑みの下には、氷のような何かが潜んでいた。
「……どうしたの?」
レナが首を傾げる。
レオンは答えず、ただ一口、冷めたコーヒーを飲み干した。
その瞳に宿る色は、夕陽よりも深く、遠かった。
会計を済ませて外に出ると、夜の街はすっかり冷えていた。
ふたり並んで歩く。レオンは無言のまま。足音だけが、石畳に響く。
(……あれ、怒ってる? そんなことないよね)
レナはそっと横目でレオンを見る。
表情は変わらず穏やか――けれど、その穏やかさが、
かえって遠く感じた。
(私、何か悪いこと言ったかな……? 将来とか、レオンってそういう話あまりしないし。繊細なこと、話さない方がよかったのかも)
沈黙が痛い。
声をかけようとして、言葉が喉の奥で止まった。
ただ並んで歩くだけの時間が、こんなにも長く感じるなんて思わなかった。
ふと夜風が吹いて、彼の金の髪が揺れる。
その横顔を見て、胸のざわめきを押し込むように小さく息を吐いた。
(……次は、もっと普通の話をしよう)
そう決めても、心の奥のざらつきは、しばらく消えなかった。
肩のあたりに、風とは違う気配が一瞬だけ触れた気がした。
けれど振り返る前に消えて、レナは自分の勘違いだと思うことにした。
***
レナの部屋の扉が閉まるのを見届けてから、レオンは廊下を歩いた。向かいの自室。鍵を回し、扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
ヴァルグレイス帝国。
公爵家への仕官。
彼女は何も知らない。
だから言えた。
あんなにも軽く、あんなにも無邪気に。
(名誉、か)
笑ったのか、凍ったのか。自分でも判別できない。
学院では名前を変えて、孤児として通している。
その偽名の下に埋めた過去が、今夜、彼女の口から無防備に掘り起こされた。
あの家に仕えるなど、馬鹿馬鹿しい。
俺はあの家の人間だ。
訳あって、あの家には帰らないと決めた。
思考を断ち切る。
彼女が笑っていた横顔まで、消えない。
(謝らなくていい。お前は何も知らないんだから)
この感情に名前をつけるのは、ずっと避けている。
名前をつければ、手放せなくなる。
彼女が描いた未来が、まだ頭の中にある。
薬屋。街の隅。猫。静かな夜。
そこに俺はいない。
帰り道で、彼女がよろけたときを思い出す。
肩に触れる寸前で止めた手の感覚だけが、空中に残っている。
届かなかった。
夜風の匂いが、窓の隙間から入り込んだ。
***
そして翌朝。
レナは朝から、胸の奥がざわついていた。
何かが、どこかおかしい。
廊下を歩くたびに、背中にひやりとしたものが張りつく。
(……誰かに見られてる?)
そう思って振り返る。
そこにはいつも通りの喧騒と、行き交う生徒たち。
誰もこちらを見ていない。
見ているようで、見ていない。
足を止めるたび、微かな衣擦れの音や囁きが遠くで弾ける。
壁際に立つ女生徒たちの視線が、一瞬だけぶつかって逸れた。
笑い声。噂の匂い。
けれど、それとは別の――もっと静かな“視線”があった。
冷たい。
観察されているような、体の輪郭をなぞられるような感覚。
(……レオン?)
思わず心の中で呼ぶ。
でも、違う。あの人の気配は、もっと温かくて、近い。
これは……ただ、冷たい。
興味だけがそこにあって、感情が欠けている。
レナは小さく息を吐いた。
理由の分からない不安を、いつものように飲み込む。
大丈夫、気のせい。
そう言い聞かせながら、教室の扉を開いた。




