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【第二部完結】Fated Oath ─誓約の果て─  作者: りんごあめ
第三部 壊す者 ― The Game of Judgment
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第97話 私、生きてるかな

「……それは、俺とも離れるってこと?」


 レオンの低い声。

 レナははっとして顔を上げた。

 冗談とも怒りともつかない――けれど、確かな寂寞を含んだ声だった。


「卒業しても……なんとなくレオンとは会ってそうな気がするけど」

「けど?」

「……私、生きてるかな?」


 その言葉に、レオンの目がかすかに見開かれた。

 思考が止まる。

 彼女の言葉が胸の奥で静かに爆ぜる。


 レナは、そんな彼の反応に気づいて、慌てて笑顔を作った。


「だ、大丈夫だよ! このまま血のことを隠して生きれば、きっと普通にやっていけるから!」


 言い聞かせるように、早口で続ける。


「将来ね、ちゃんとした仕事がしたいなって思ってて。たとえば、薬草の調合とか……小さな薬屋さんとか、いいなって。街の隅っこの、目立たないところで、毎日同じことをして暮らすの」


 レナは、カップの温かみを両手で確かめながら言った。

 夢というには小さすぎる話。

 でもそれが、彼女にとって夢だった。


「お客さんが来てくれて、ありがとうって言ってもらえて。猫でも飼えたらもっといい。静かな夜に、一緒に寝るの……そういうの、いいと思わない?」


 微笑みながら語る横顔は、やわらかかった。

 脅かされた日々の記憶とは、遠い場所を見ていた。

 レオンは黙って、その言葉を聞いていた。

 一言一言が、胸の奥の何かに引っかかる。

 薬屋。街の隅。目立たない場所。猫。静かな夜。

 どれひとつとして、そこに自分の名前はなかった。


 思考が、止まった。

 ドーナツの皿を見つめたまま、レオンは指先に力を込めた。

 彼女が描く未来は、彼女一人で完結していた。

 レオンは、低く息を吐く。


「……俺は?」


 レナは一瞬きょとんとして、それから困ったみたいに笑う。


「え、だって……レオンは、もっとちゃんとした場所に行けるでしょ。私みたいなのが隣にいたら、足を引っ張るもん」


「……血のことを完全に隠して生きられると思うか」


 責めているわけではなかった。

 ただ、口から出た。

 レナの表情が、わずかに翳った。


「……わかってる。難しいのは、わかってる。でも、諦めたくないんだよ」


 静かな声だった。

 ただ真っ直ぐに、それだけが彼女の芯にあった。


 レオンは、何も言わなかった。

 レナはドーナツをひとかじりして、思い出したように顔を上げた。


「ね、ねえレオンは? レオンは将来どうするの? 進路!」


 わざと明るく話題を切り替える。


「俺は……」


 レオンはしばし黙り、カップの縁を指でなぞった。


「軍に入ろうとも思ったが、上層部の腐敗が嫌でやめた。研究をするつもりもない。この学院を足掛かりに、どこに行くかはまだ分からないな」


「えっ、もったいないよ。この学院中立機関だし、どこの国家機関の要職でもいけるんじゃないの? ほら、隣のヴァルグレイス帝国とか大国だし……」


 その名を出した瞬間、空気が凍った。

 レナは気づかない。レオンの肩がわずかに強張ったことに。

 彼の手が、無意識にカップの取っ手をきつく握る。


「あの国の公爵家に仕えるだけでも名誉なんでしょ? 名前忘れたけど、すごい家系の……」


 それは、何気ない一言のつもりだった。

 彼はゆっくりと視線を上げ、レナを見た。


「名誉、ね」


 その声は笑っていた。

 けれど、その笑みの下には、氷のような何かが潜んでいた。


「……どうしたの?」


 レナが首を傾げる。


 レオンは答えず、ただ一口、冷めたコーヒーを飲み干した。

 その瞳に宿る色は、夕陽よりも深く、遠かった。


 会計を済ませて外に出ると、夜の街はすっかり冷えていた。

 ふたり並んで歩く。レオンは無言のまま。足音だけが、石畳に響く。


(……あれ、怒ってる? そんなことないよね)


 レナはそっと横目でレオンを見る。

 表情は変わらず穏やか――けれど、その穏やかさが、

 かえって遠く感じた。


(私、何か悪いこと言ったかな……? 将来とか、レオンってそういう話あまりしないし。繊細なこと、話さない方がよかったのかも)


 沈黙が痛い。

 声をかけようとして、言葉が喉の奥で止まった。


 ただ並んで歩くだけの時間が、こんなにも長く感じるなんて思わなかった。


 ふと夜風が吹いて、彼の金の髪が揺れる。

 その横顔を見て、胸のざわめきを押し込むように小さく息を吐いた。


(……次は、もっと普通の話をしよう)


 そう決めても、心の奥のざらつきは、しばらく消えなかった。

 肩のあたりに、風とは違う気配が一瞬だけ触れた気がした。

 けれど振り返る前に消えて、レナは自分の勘違いだと思うことにした。



***



 レナの部屋の扉が閉まるのを見届けてから、レオンは廊下を歩いた。向かいの自室。鍵を回し、扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


 ヴァルグレイス帝国。

 公爵家への仕官。

 彼女は何も知らない。

 だから言えた。

 あんなにも軽く、あんなにも無邪気に。


(名誉、か)


 笑ったのか、凍ったのか。自分でも判別できない。


 学院では名前を変えて、孤児として通している。

 その偽名の下に埋めた過去が、今夜、彼女の口から無防備に掘り起こされた。


 あの家に仕えるなど、馬鹿馬鹿しい。

 俺はあの家の人間だ。

 訳あって、あの家には帰らないと決めた。


 思考を断ち切る。

 彼女が笑っていた横顔まで、消えない。


(謝らなくていい。お前は何も知らないんだから)


 この感情に名前をつけるのは、ずっと避けている。

 名前をつければ、手放せなくなる。


 彼女が描いた未来が、まだ頭の中にある。

 薬屋。街の隅。猫。静かな夜。

 そこに俺はいない。


 帰り道で、彼女がよろけたときを思い出す。

 肩に触れる寸前で止めた手の感覚だけが、空中に残っている。

 届かなかった。


 夜風の匂いが、窓の隙間から入り込んだ。


 

 ***

 

 

 そして翌朝。


 レナは朝から、胸の奥がざわついていた。

 何かが、どこかおかしい。

 廊下を歩くたびに、背中にひやりとしたものが張りつく。


(……誰かに見られてる?)


 そう思って振り返る。

 そこにはいつも通りの喧騒と、行き交う生徒たち。

 誰もこちらを見ていない。

 見ているようで、見ていない。


 足を止めるたび、微かな衣擦れの音や囁きが遠くで弾ける。

 壁際に立つ女生徒たちの視線が、一瞬だけぶつかって逸れた。

 笑い声。噂の匂い。

 けれど、それとは別の――もっと静かな“視線”があった。


 冷たい。

 観察されているような、体の輪郭をなぞられるような感覚。


(……レオン?)


 思わず心の中で呼ぶ。

 でも、違う。あの人の気配は、もっと温かくて、近い。

 これは……ただ、冷たい。

 興味だけがそこにあって、感情が欠けている。


 レナは小さく息を吐いた。

 理由の分からない不安を、いつものように飲み込む。

 大丈夫、気のせい。

 そう言い聞かせながら、教室の扉を開いた。


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