第96話 未来は闇の中
午後の授業が終わり、生徒たちがぞろぞろと教室を出始めた頃。
レナはノートを閉じ、カバンの紐を直していた。
まだ教室には数人残っていたが、そのうちの一人が廊下の方向を見た。
廊下にいたのは、いつもの黒衣のコート。
姿勢のいい立ち姿と、金の髪が、教室の空気を一瞬で引き締めた。
誰かが小声で「Sクラスだ」と言った。
それだけで、教室がわずかに固まった。
「……行くぞ。ルグランのところに」
レオンは、それだけ言ってレナに視線を向けた。
目は、やや鋭いがどこか優しい。レナが体調を崩して以来、彼は放課後になると必ず迎えに来るようになった。
「うん、分かった」
レナは軽く頷き、椅子を引いた。
ぎこちなく立ち上がる様子に、レオンの視線が一瞬だけ鋭くなる。だが、何も言わず、歩幅を合わせて先に扉を開いた。
その様子を、近くの席からエリックが見ていた。
彼は無言で立ち上がると、レナの肩に手を軽く添える。
「……行ってらっしゃい。無理するなよ」
「うん、大丈夫。ありがとう、エリック」
レナが小さく微笑むと、エリックはわざとらしく眉を上げた。
「何かあったら俺にも言えよ。あいつにだけ頼るのはバランス悪いからな?」
「ふふ、分かった」
そのやり取りを、レオンは黙って見ていた。
感情を表に出すことはなくても、視線だけは鋭く刺さる。
それでもレナが歩き出すと、レオンは静かにその横に並んだ。
ふたりが教室を後にする背を見送って、エリックはふう、とため息をついた。
(……検査、ね。そういうことにしておくか)
ため息は、飲み込んだ。
窓の外はもう夕暮れで、鈍いオレンジが教室の床を照らしていた。
あの二人の背中は、もうとっくに見えなくなっていた。
***
診察室の扉を閉めると、ほのかに薬草の匂いが漂った。
ルグランが白衣の袖をまくりながら、無駄のない動きで机の上に器具を並べていく。魔力測定石が淡く青く光り、室内の空気が静かに脈動した。
「ふむ、安定してるな」
短く言いながら、ルグランは魔力反応を覗き込む。
「魔力の揺れもなし。負荷反応も落ち着いてる。傷も、綺麗に塞がってるじゃないか」
「……じゃあ、もう来なくても大丈夫ですか?」
レナが遠慮がちに問う。
ルグランは、淡々と首を横に振った。
「いや、あくまで今は、だ」
測定石に映る数値を見ながら、静かな声で続ける。
「君の血は特異だ。魔力は強すぎると制御できなくなる。綺麗に見えても、内側で爆発寸前のこともある。だから、これからは自分で魔力の状態を感じ取れるようになるといい。俺たちは、その補助をするだけだ」
「……はい」
レナは素直に頷いた。
その横で、レオンは無言のまま立っていた。
ルグランが針を片づける音の中で、レナの顔にほんのわずかな不安が浮かぶ。
レオンはそれに気づいたが、何も言わない。
ただ、彼女の背中にそっと手を添えた。
診察を終え、レナが「着替えてきます」と小さく言い残して奥の部屋へ下がっていく。レオンはその背を見送り、待合室に戻った。
その隙を、ユージンは逃さなかった。
書類を束ねるふりをしながら、ルグランの肘を小突く。
「先生……あの、レオンくん、また来てますよね?」
「ん?」
「いや、ほら。入院の時もずっといたじゃないですか。検査の付き添いまで毎回来て、今日なんてずっと隣で立ってましたよ!」
ルグランは記録書にペンを走らせながら、気のない声を返す。
「まあ、あいつはそういうやつだ」
「いや、でも毎回ですよ!? この前は検査の帰りにカフェ、その前は本屋、その前は甘味処……完全にデートコースじゃないですか!」
ユージンが身を乗り出す。
ルグランは一拍置いてから、真顔で頷いた。
「定期検診という名目のデートだな」
「やっぱりーー!!」
ユージンが机を叩いて叫ぶ。
「しかもさっきレナちゃんの髪にゴミがついてたらしくて、何のためらいもなく取ってたんですよ!距離近すぎません!?」
「距離感がバグってるんだ、あの男」
「じゃあ、もうあれって……」
「事実婚だな」
「えぇぇぇ!? 付き合ってるって話は聞いてないんですけど!?」
ユージンが両手を振り上げたその瞬間──
部屋の外、扉の向こうから気配がした。
静かすぎる気配。
空気が一瞬、張り詰めた。
「……い、今の、聞かれてませんよね?」
「祈れ」
「やだ、先生! マジで怖いんですけど!」
そのとき、ノックの音。
無言で扉が開き、レオンの冷たい青の瞳が覗いた。
「……終わったか」
低い声。
ユージンはぎこちなく笑い、心の中で必死に神に祈った。
ルグランはというと、何事もなかったかのように書類を閉じ、淡々と告げた。
「次回は二週間後だ。……同伴者も、同じでいいんだろ?」
レオンは無言で頷き、レナの肩に軽く手を置いた。
そのまま静かに扉を閉める。
ドアが完全に閉まったあと、ユージンが机に突っ伏した。
「……生きた心地しないっす……」
「慣れろ」
ルグランの返事は、いつも通りの乾いた声だった。
***
レナとレオンが診療所を出て、街の通りに出ると、夕方の風が少しだけ甘い匂いを運んできた。
レナは、歩きながら小さく笑った。
「ねっ、この辺に新しくできた店、行ってみない?」
「何の店だ」
「ドーナツのカフェだって!」
レオンは短く息を吐く。
眉をわずかに寄せながらも、拒むような気配はなかった。
「検診結果は悪くなかった。……まあ、たまにはいいだろ」
レナの顔がぱっと明るくなる。
彼女のそういう反応に、レオンは何度見ても慣れなかった。
街角を曲がると、硝子張りのカフェが見えた。
店先からは、揚げたてのドーナツの甘い匂いが漂っている。
席に着くと、レナはカップの縁に指を添えたまま、鞄から何かを取り出した。
「ねえ、私、もうちょっとで十六歳なんだよね。それでさ、こんなものを学院からもらったんだけど」
差し出されたのは、一枚の紙。
進路調査書だった。
「……ほら、Aクラスまでは十八歳で卒業でしょ?進路、どうしようかなって思ってて」
レナは紙を眺めながら、カップの中の泡をつつくように言った。
「レオンはSクラスだから二十四歳までは学院にいられるんだっけ? その後も希望すればもっといられるんだよね? いいなあ」
レオンは、ストローの包みを外しながら黙って聞いていた。
その横顔がわずかに強張っていることに、レナは気づかなかった。
「将来なんて、今まで考えたことなくて。生き延びるのに、ただ必死で。それは今も変わらないけど……」
言葉を探すように、レナは俯いた。
「でも、みんなといつか離れる日が来るのは、寂しいな」
沈黙が落ちた。
レオンはドーナツを見つめたまま、低く呟いた。
「……それは、俺とも離れるってこと?」
レナは、はっとして顔を上げた。
その瞳に映るのは、いつもより少しだけ影を帯びた青。
冗談とも怒りともつかない声だった。




