第9話 夕餉と名前のない苛立ち
その日は、レオンにとってたまたまだった。
街に出て、情報の受け渡しを済ませた帰り道。
あとは学院に戻るだけ――のはずだった。
けれど。
視界の端に入った一軒のカフェが、レオンの足を止めた。
(……ここか)
レナが「バイト先」だと話していた場所。
まさか本当に年齢をごまかしてまで働いているとは思っていなかった。
けれど、アイツなら……やりかねない、とも思っていた。
扉のベルが小さく鳴る。
レオンは中には入らず、店の外から、ガラス越しに中を覗き込んだ。
――そこに、いた。
カウンターの奥、エプロン姿のレナ。
忙しそうに立ち働き、客に笑いかけている。
注文を受け、ドリンクを用意し、すばやく配膳して――
よろけたトレイを慌てて立て直しながら、深く頭を下げていた。
(……本当に、詐称してんのかよ)
唇の端が、かすかに歪む。
(見た目も声も幼いのに、よく通ったな)
けれど、それ以上に――
(……意外と、ちゃんとやってるんだな)
そう思った瞬間、自分自身に少し戸惑う。
戦闘には向いていなくて、よく転んで、すぐ泣きそうになるやつ。それが“レナ”だと思っていた。
だが今そこにいるのは、自分の足で立ち、働き、誰かの役に立とうとする“普通の少女”だった。
客の笑顔に、レナが笑顔で返す。
その柔らかい光景が、胸の奥をざらりとひっかいていく。
レオンはカフェから目を逸らした。
けれど――その場から、なぜか足が離れなかった。
***
その日は、珍しく早く仕事が終わった。
裏の依頼を一件こなして、報酬を現金で受け取ったばかりだ。
手元の袋には、十分すぎるほどの金が入っている。
(……今日、アイツ。飯、食ってなかったな)
朝も、昼も。寮の食堂で、パンをつまむだけのような食事。
節約だの学院からの生活支給金がどうのこうのと、そんなことを言っていたが――
あんな食生活じゃ、身体がもつはずもない。
(……別に、特別な意味じゃない)
ただの、飯。
ただの、栄養補助。
興味なんかじゃない。
ただ、無駄に倒れられたら、こっちが面倒なだけ。
そう自分に言い聞かせながら、足は喫茶店へ向かっていた。
そして、店の前に立ち、扉に手をかけた――そのとき。
ふと、ガラス越しに見えた。
カウンター奥。
バイト終わりらしいレナが、エプロンを外して、店長らしき男と話している。
笑っていた。
だが――店長の手が、彼女の腕にふれた瞬間。
レナは一瞬、笑顔を引っ込め、肩をすくめた。
その光景を見た瞬間。
胸の奥に、ぐつぐつと何かが煮えたぎるような感覚が広がった。
(……何してやがる)
音が消える。
光が遠ざかる。
代わりに、頭の奥に冷たい計算式が浮かび上がる。
(殺すか)
その言葉が、ごく自然に思考を支配した。
指先に、魔力が滲みかける。
だが――
レオンは奥歯を噛みしめ、その衝動をねじ伏せた。
(……違う。今はそんな用じゃない)
静かに、扉を押して、店内に入る。
中にいたレナがこちらに気づき、ぱっと顔を明るくした。
「レオン? どうしたの?」
「バイト終わったんだろ。……飯、行くぞ」
「……え?」
「何だ。食わねぇのか?」
「あ……ううん、行く!」
レナは店長にぺこりと頭を下げ、急ぎ足でレオンのもとへ駆け寄ってくる。
レオンは、ちらりとその背後――店長に視線を向けた。
その目に、笑みはなかった。
(……次、触れたら――その指、落とす)
心の中で静かにそう呟きながら、先に歩き出す。
ただの飯だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
本当はそうであるはずだった。
—————
小さなレストランの窓辺の席。
温かな灯りと、ほのかに香るバターの香り。
レナはメニューを見ながら、目を輝かせていた。
「ねえ、これ見て。ハンバーグにチーズ乗ってる。美味しそう……!」
「……好きにしろ。遠慮すんな」
レオンはそう言いながらも、落ち着かない表情を隠せなかった。
向かいに座る少女は、何の警戒もなく、ただ嬉しそうに笑っている。
──何なんだ、この空気は。
注文を済ませ、料理が届く。
レナは「いただきます」と言ってから、フォークを手に取った。
「……ほんとに奢ってくれるなんて、びっくりしたよ」
「別に。仕事の報酬が入っただけだ」
「うん……でも、嬉しい。ありがとう」
その言葉に、レオンは応えず黙っていた。
(……なんで俺は、こんなところにいる?)
自問する。
たかが一食。たかが付き合い。
そう言い聞かせてきたのに――どこかざわつく感情が、腹の奥で静かに渦を巻いている。
さっきの店長の手。
レナの笑顔が消えた一瞬。
なぜ、あれほどに苛立ったのか。
(他人が何をしようが関係ないはずだ)
「レオンも、もっと食べなよ。美味しいよ?」
そう言って、レナは自分の皿を指差す。
その笑顔に、レオンは目をそらした。
「……お前、いつもそんな顔で笑ってるのか」
「え?」
「……何でもない。食え。まだ足りてねぇだろ」
言葉はぶっきらぼうにしか出てこなかった。
苛立ちの理由が、自分でもわからなかった。