第9話 絶対に忘れない
「Nolivianne」
その言葉が、ずっと耳の奥に残っていた。別れ際、アルがそっと口にしたエルヴェーニュ語。
意味はわからない。けれど、 ただの音ではないと、みゆは感じていた。
——知りたい。
それが、心の奥でじわりと芽を出し始めた。
みゆはある日、駅前の図書館へ向かった。
エルヴェーニュ語という言語がどこまで記録されているかわからなかったけれど、調べることから始めてみようと思えた。
館内は静かで、午後の光がやわらかく差し込んでいた。
外国語の棚をめくっていると——
「……あれ? もしかして、みゆちゃん?」
声に顔を上げると、そこには見覚えのある人影があった。
「はるなさん……」
一度だけ、試験会場で話した子。あのあと、連絡をとることはなかったけれど、 どこかでまた会える気がしていた。
「久しぶり! なんだか、元気そう」
みゆは、少し照れくさくなって、首をかすかに振る。
「……ううん。でも、少し……知りたいことがあって」
はるなはにっこり笑った。
「そっか。調べもの?」
「うん、そんな感じ」
みゆもにっこり笑い返した。
「実は、私もなんだ!レポートの課題。なにか手伝えることあったら言ってね」
その言葉に、胸があたたかくなった。
図書館の机に並んだ資料の中に、エルヴェーニュ語に関する小さな辞典があった。ページをめくるたびに、未知の文字と構造が現れる。
みゆは、静かにノートを開いた。手元にあるのは、音だけ覚えている、ひとつの単語。
——Nolivianne。
そこから、旅が始まった。
「Nolivianne」
ノートに、その言葉をアルファベットで書いてみる。何度も書いているうちに、手が勝手に形を覚えていく。
資料の中から拾える情報は少なかった。エルヴェーニュ語は、公用語としては存在するものの、日本では学術的な資料も、言語教育の文献も、ほとんど見つからない。
それでも、みゆは諦めなかった。意味を知りたい、という想いが、 自分の中にこんなに強くあることに、少し驚いていた。
「それ、なんの言葉?」
隣に座ったはるなが、ノートをのぞきこむ。
「……エルヴェーニュ語、っていうの。友達に、教えてもらった単語で」
「へえ、すてきな響きだね。ノリヴィアンヌ……? なんか、歌みたい」
みゆは、小さく笑った。
「……そう、わたしも、そう思ったの」
調べていくうちに、古語に近い形の文献を、館内でひとつだけ見つけた。フランス語やラテン語に似た構造を持つその言葉は、 どうやら「想い」や「祈り」に関連するニュアンスを持つらしい。
そして、古いページに、みゆの視線が止まった。
——Nolivianne.
【意味】私の光。魂が寄り添い続ける存在。
「……」
胸の奥が、熱くなった。
音の美しさに惹かれていたこの言葉に、こんな意味が込められていたなんて。
みゆはそっとノートにその意味を書き写し、指先で、ことばの綴りをなぞった。
——ありがとう、アル。
わたし、この言葉、絶対に忘れない。
図書館からの帰り道、みゆは何度も「Nolivianne」の綴りを口の中で唱えていた。
——私の光。魂が寄り添い続ける存在。
それは、アルがくれた最後の言葉。彼が、言葉の意味を告げずに残したのは、 きっと「わたし自身でたどり着いてほしかった」からなのかもしれない。
みゆはその優しさを、深く抱きしめた。
家に帰り、ポストを開けたときだった。封筒が一通——白くて、海外の消印。
「……え」
手が止まる。丁寧なアルファベットで宛名が書かれている。しかし、差出人の名前はない。
(アルだ)
みゆの心はもう、先に知っていた。
封筒を両手で持ち、ゆっくりと自室へ向かう。カーテンを閉めた部屋の中、机に手紙を置き、深呼吸。
封を開くと、一枚のつややかな便箋が入っていた。
便箋には、少しぎこちないひらがなと漢字が並ぶ。
それでも、ひとつひとつきちんと書かれていて、アルのまじめな性格を現すかのようだった。
「みゆさん、お元気ですか。」
「私は国に帰ってからも、
あなたのことを忘れたことはありません」
「あなたの描いてくれた、似顔絵のことも」
一文一文が、みゆの胸を打つ。
「みゆさんが、あなたらしく過ごせていますように」
「わたしも、自分を大切にできるように、すこしずつ前に進みます」
みゆは、胸に手を当てた。いつもどおりの優しい言葉が並んでいる。
そして、手紙の最後には——
「Nolivianne.」
みゆは、そっと目を閉じて、その言葉を、今度は意味とともに、ゆっくり心で唱えた。
——わたしの光。
たとえ遠くにいても、つながっている。そんな希望が、たしかに、そこにあった。
アルの手紙を読んだあと、みゆはしばらく何も描けなかった。胸の奥があたたかくて、少しさびしくて、 言葉がまとまらないまま、日が過ぎていった。
でも、ふとした瞬間、鉛筆を手に取っていた。
白い紙の上に、線を引く。ゆっくりと、やわらかく、ためらいながら。
あのとき見た、アルの笑顔。 あの言葉をくれたときの、まなざし。
言葉にはできなかった想いが、少しずつ線になっていく。
——わたしは、絵でなら、伝えられるかもしれない。
自分でも知らなかった感情が、 指先を通して、紙の上に現れていく。
みゆは、静かにペンを握り直す。
アルの国の空を、想像で描いた。
雪の降る街並みと、石造りの建物。 重厚な塔、旗のはためく丘。
そこに立っているアルの姿を、みゆは自分なりに想像して、描き加えた。
笑っていた。 あの日のように、どこかさびしさを含んだ優しい笑顔だった。
完成した絵を見て、みゆは小さくうなずいた。
——これが、いまのわたしの気持ち。
手紙に、絵を添えようと思った。
言葉では足りないから。 伝えきれないから。
だから、わたしは、描く。
封筒に、そっと絵を入れる。
便箋は、シンプルにまとめた。たくさんの言葉ではなく、ただ「ありがとう」と「またね」と書いた。
それだけで、今の自分には十分だった。
郵便局へ向かう道すがら、 風が少し強く吹いて、髪が頬にかかった。
手紙が、ちゃんと届くかわからない。
でも、それでもいい。わたしの気持ちは、ここにある。
だからこそ、いま送りたいと思った。
ポストの前で深呼吸。封筒を差し入れるその一瞬、 また胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
——これで、ほんとうに、届くのかな。
不安と期待と、少しの勇気。 全部まるごと、封筒に込めた気がした。
「……Nolivianne」
つぶやいた声は、春の光にやさしく溶けた。
みゆは空を見上げた。あの人も、同じ空を見ていたらいい。
そう思えたら、それだけで——すこし、前を向けた気がした。