第8話 きっと大丈夫
彼が国へ戻ってからは、一通の連絡もない。
それは、そういう約束だった。SNSではもう話せない。
だから、これから彼と「会話」するには、時間をかけて手紙を書くしかないと、わかっていた。
わかっていたのに、なかなか書き出せなかった。
言葉がまとまらなかった。
どう始めればいいのかも、何を書けばいいのかも。でも、伝えたい気持ちだけは、ずっとあった。
その日、みゆはふとペン立てに目をやって、引き出しの中を開けてみた。
何枚かのメモ用紙と、くしゃくしゃになった古いノート。
便箋らしいものは、見つからなかった。
——ちゃんとした紙がいい。
そう思った。彼に宛てる最初の手紙だから。時間がかかってもいい。言葉がつたなくてもいい。
だからせめて、紙だけは。
みゆは、そっと立ち上がって、玄関の靴を揃えた。春の風が吹いていた。
文具店の棚には、色とりどりの便箋が並んでいた。どれも似ているようで、どれも違って見える。
——アルに届く、たったひとつの便箋。
そう思ったら、ますます迷ってしまう。
でも、ふと目に入った便箋に、自然と手が伸びた。うすい水色に、すこしだけ波のような模様が入っている。
「……海みたい」
思わずつぶやいた声が、心にすとんと落ちた。
アルの瞳を思い出したのだ。 あの、海のような青。それを見たときの、自分の胸の高鳴りを。
みゆは、その便箋と封筒をゆっくりと抱えるようにして、レジに向かった。
手紙を書くのは、久しぶりだった。でも、たったひとりの人のために言葉を選ぶのは、 どこか、絵を描くのに似ている。
——まちがえたっていい。
——わたしの言葉で、書こう。
帰り道、初夏の風が少しだけ強くなって、買ったばかりの便箋の袋がふわりと揺れた。それでも、みゆの手はしっかりと、その重みを抱えていた。
机の上に、便箋とペンを並べた。みゆは、その前にそっと座る。
手は動かない。けれど、胸の奥は静かに熱を持っていた。
——なんて書こう。
その問いが、頭のなかで何度もまわる。
「アルへ」
最初の一行は、すぐに浮かんだ。けれど、そのあとの言葉が続かない。
いくらでも書ける気がするのに、ほんとうに伝えたいことだけを選ぼうとすると、 やっぱり不器用になる。
——ありがとう。
その言葉は、まちがいなく書きたい。
——わたしも、あなたに救われていました。
——あのラウンジでの時間、忘れません。
浮かんでは消えていく言葉を、みゆはゆっくりとつかまえていった。
何度か下書きをして、便箋に向かい直す。
手が、すこしずつ動き出す。
最初の一筆が、紙の上に落ちたとき、胸の奥で、なにかがほどける音がした。これは、会えない時間のなかで、自分でいられるための言葉だ。
手紙を書くということは、 伝えるだけじゃなくて、自分の気持ちを知ることでもあるのだと、 みゆはこのとき初めて知った。
みゆは、封筒をゆっくりと閉じた。小さく息を吐いて、宛名を書く。文字は、すこし震えていた。
投函しに行く道すがら、毬のようなアジサイの姿を見つけた。季節は、確かに進んでいる。ふたりが出会った春は過ぎて、 これから、どんな夏が来るのかはわからない。
それでも——
「きっと、大丈夫」
みゆは、そっと呟いた。
ポストの投入口に、手紙を差し入れる。カタン、と音がして、 すべてが未来へ動き出したような気がした。
空を見上げると、雲の切れ間から、光がひとすじ差していた。