第7話 Nolivianne
カップの紅茶はすっかり冷めていた。ラウンジの時計が、静かに針を進めていた。
別れの時間が近づいている。それを誰も口に出さないまま、ふたりの間には、かすかな緊張が戻ってきていた。
みゆは、うつむいたまま、小さく口を開いた。
「……また、会いたいです」
奥から絞り出すような声。 それだけは、どうしても言いたかった。
アルは、一瞬、まぶたを閉じた。そして、申し訳なさそうに、首を横に振る。
「あなたと会うことは……もうできません」
「えっ……!」
みゆは、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚にとらわれた。まるで目の前にあった灯りが、一瞬で消えてしまったみたいだった。
「わたしの身分のことで、いま、国がとても、ざわついています。だから、王宮からは『今後しばらく部外者との接触は禁止』と、言われました」
彼の声は静かだったけれど、苦しさを押し込めているのが、みゆにもわかった。
「あなたのことも、『部外者』と言われてしまうのが……くやしいです」
その言葉に、みゆの胸がきゅっと締めつけられた。
「……そして、もうひとつ、あります」
みゆは小さくうなずいて、彼の顔を見つめた。
「昨日を最後に、わたしはSNSを使うことを、止められました」
「……そんな」
小さな沈黙があった。
みゆは何も言えずに、ただ彼の顔を見つめるしかなかった。
アルは、言葉を選びながら、静かに続けた。
「わたしは……自由に言葉を選べなくなったのです」
みゆは、ただ唇をかすかに噛んでいた。
この人が、どれほどのことを背負っているのか、今になってようやく、少しだけ見えた気がした。
しかし、アルは続けた。
「でも」
アルは、まっすぐにみゆを見つめた。
「手紙なら……書くことができます」
みゆは目を見開いて、数秒間、彼を見つめた。
「……ほんとうに?」
「はい。本名では、出せません。 でも、わたしの気持ちは、そこに、きっとあります」
みゆは、静かにうなずいた。
「ありがとう」
みゆが、そっと言った。アルも、微笑んでうなずく。
「わたしの方こそ、ありがとう」
ふたりは、ゆっくりと立ち上がった。椅子のこすれる音だけが、ラウンジにやさしく響く。
そして、別れ際——アルは、みゆの目を見て、 ほんの一瞬、少し考えるような間を置いた。
それから、穏やかな声で、ひとこと、口にした。
「Nolivianne.」
みゆは、きょとんとして見返した。
「……それ、なにかの言葉ですか?」
アルは、少し照れくさそうに微笑んだ。
「わたしの国の言葉、です。意味は……内緒にしても、いいですか?」
「えっ、そんなぁ……」
みゆは、笑いながら、でもどこか胸が温かくなっていた。
——Nolivianne。ノリヴィアンヌ。
その音だけが、耳にやさしく残っていた。
意味はわからない。けれど、なぜか、忘れられそうになかった。
翌朝。みゆはリビングで、いつもより少し遅く目を覚ました。
テレビをつけると、どこかで見た制服のようなものと、 金髪の後ろ姿が映っていた。
——アル、だった。
「エルヴェーニュ王子、帰国の途に」
字幕とナレーションが、昨日の面影を、現実のものとして伝えてくる。
画面の中の彼は、ふたたび「王子」としての顔に戻っていた。 表情はやわらかいのに、どこか遠く、近づけない場所にいる人のようだった。
みゆは、ソファの上で膝を抱えたまま、しばらく画面を見つめていた。
もう、日本にはいない。でも、あのラウンジでの時間は、たしかにあった。
目を合わせたときの息の詰まるような静けさも、ふとした会話にこぼれた笑顔も、やさしく差し込んだ午後の光までも──ぜんぶ、みゆのなかに残っていた。
夢みたいだった、と思う。だけど、夢じゃない。
だって、彼はたしかに隣にいた。声を聞いた。手を握った。名前を呼んでくれた。
部屋からぼんやりと窓の外を眺めながら、みゆは両手を見下ろした。
何も持っていないけれど、まだ彼の言葉のぬくもりが残っている気がした。