第6話 はじめまして
ホテルのロビーは、静かだった。
厚い絨毯を敷き詰めた広い空間に、控えめなクラシック音楽が流れている。
エントランスをくぐった瞬間、みゆは思わず呼吸を整えた。
「わたし……森田みゆ、といいます」
ホテルスタッフに名前を伝えると、「お待ちしておりました。あちらへどうぞ」と、すぐに案内された。
ドアの向こう側には、ゆったりとしたソファと、木漏れ日のような柔らかい光が広がっていた。
心臓の音が、耳の奥で響く。やわらかな空気が、ふわりと頬を撫でた。
一歩。
また一歩。
中へ進んだその先で——
ソファに座って、まっすぐにこちらを見ている人影と、目が合った。
プラチナブロンドの髪。
静かな青の瞳。
アルが、そこにいた。
みゆは、震える手でスカートの裾を握りしめながら、そっと歩み寄った。
アルは、みゆが近づくのを静かに待っていた。
遠くからでも、そのまなざしはやわらかく、まるで「だいじょうぶだよ」と語りかけてくるようだった。
みゆは、震える手を胸の前でそっと合わせる。息を吸い込んで、一歩、また一歩と歩み寄った。
数メートルが、長いようで、短かった。
ふたりの距離が、ついに同じ空気の中に溶け込んだとき、アルがゆっくりと口を開いた。
「はじめまして」
その言葉が、驚くほどやさしくて、みゆは胸の奥にじんわり熱が広がるのを感じた。
アルは一礼して、まっすぐにみゆを見つめた。
「わたしは、アルバン・ド・エルヴェーニュです。あなたに会えて、本当にうれしいです」
異国のリズムを帯びた日本語。
その口調は、どこか格式がありながら、でも堅苦しさはひとつもなかった。
みゆは手のひらの汗をスカートにそっと隠すようにして、自分の名前を言う準備をした。
「……森田みゆ、です。こちらこそ……会えてよかったです」
名前を言ったとたん、胸の奥がふわっと軽くなった。
「みゆさん」
アルのやさしい声に、表情がやわらぐ。
「……はじめまして、なんですね」
みゆが、そっと言った。
アルが、少しだけ眉を上げた。
「そうですね。でも、なんだか、不思議です」
みゆがぽつりとこぼした。
「……わたしも、です」
その一言に、気持ちが少しずつほどけていく。
現実と画面の狭間で、ようやく「ふたり」が始まっていた。
ラウンジの中は、静かだった。
貸し切りの空間に流れているのは、低く響くピアノの音と、ときどき運ばれてくるティーカップの音。
アルは紅茶を口に運んだあと、そっと視線をみゆに向ける。
「ほんとうに……来てくれて、ありがとう」
「こちらこそ……あのとき、ちゃんと『会います』って言えてよかった」
そう言えた自分に、少し驚いた。でも、今はもう、怖くなかった。
アルもまた、肩の力が抜けたように微笑んだ。
「あなたに会いたいと、ずっと思っていました」
みゆは、ゆっくりと頷いた。
ラウンジの奥、春の陽が差す席で、ふたりのカップから、細い湯気が立ちのぼっていた。
テーブルの上に、紅茶とスプーンと沈黙。
それだけ。
目の前に、あの人がいる。
夢じゃない。けれど、現実にまだ触れきれていなかった。
みゆは、手を膝の上に重ねていた。指先が震えているのがわかる。
それを見られたくなくて、視線をカップに落とした。
アルは何も言わなかった。急かすような素振りも、笑顔もない。
ただ、静かにそこにいてくれた。
みゆは一度深く息を吸い込んで、そっと口を開いた。
「……テレビで、見ました」
それだけ言うと、また少し沈黙が落ちた。
「……あの、卵、投げられて……」
うまく続けられなかった。 喉の奥がつまったように、うまく出てこない。
顔を上げると、アルの目がこちらを見ていた。
やさしく、でも真剣に。
みゆは視線を落とし、指をぎゅっと重ねて言う。
「……見たとき、……苦しくて。……胸が」
言いながら、言葉が消えていく。これ以上うまく話せる気がしなかった。
アルは、そんなみゆの言葉を、ひとつずつ飲み込むように聞いていた。
そして、カップを置いて、小さくうなずいた。
「わたしは、見ていてもらえたこと、とても、うれしいです」
その声がひどく静かで、それ以上にあたたかかった。
「……会わなきゃって」
みゆが絞るように言うと、アルはゆっくりとまぶたを閉じ、言った。
「来てくれて、ありがとう、みゆさん。
わたし、うれしいです、ほんとうに」
みゆは、少しだけ目を細めた。
時間だけが、やさしく流れている。
アルは、手元を見つめながら、ふっと息を吐いた。
「……あのとき。わたしに、投げられたのは、卵だけじゃない、です」
声は静かだったが、そこに含まれた重みは、みゆにも伝わってきた。
「言葉も、飛んできました。傷は、ないけど……残ります。心の、どこかに」
みゆは、アルの横顔をそっと見つめた。
まつげの影が、少しだけ揺れている。
「王子でいること……それは、とても重い、です。本当は……ほんの少しだけ、逃げたかったです。誰でもない自分になって、みゆさんと話せた時間、それは、わたしにとって、特別でした」
そこで、ふっと笑う。
「ありがとう、みゆさん。わたし、救われていました。たくさん」
みゆは、言葉を探した。でも、うまく見つからなかった。ただ、紅茶のカップに手を添えて、そっと微笑んだ。それだけで、「わたしも同じです」と、言えた気がした。
すこしばかりの沈黙の後、アルは外に視線をやった。
「ちょっと、外の風に当たりましょうか」
ラウンジを出て、ふたりは無言のままホテルの中庭へと歩いていた。
スタッフの案内などなくても、そこには迷いのない一歩があった。
アルが立ち止まり、上を見上げる。みゆも同じように空を仰いだ。
春の空は、ぼんやりと白く滲んでいた。並んで歩くアルの足取りは、さっきより少しだけ軽く見えた。
石畳を進むと、小さな門の向こうに和風の庭園が現れる。静かな池に、松の枝が影を落とす。
手入れの行き届いた中庭に足を踏み入れたとたん、ふたりの間にあった緊張が、ふっと解けるようだった。
「……日本の風景らしい、ですね」
アルが、そうつぶやいた。
池のほとりには、白く小さな沈丁花が咲いていた。春の風の中で、かすかに甘い香りが漂っている。
「……沈丁花」
みゆは、ぽそりと呟く。
「ああ……あのときの花」
ふたりの視線が重なる。
あの、メッセージでのやりとり。
まだ名前も素性も知らなかった頃。画面越しに交わした、たった数行の言葉だった。
「不思議ですね。ほんの言葉だけだったのに……気づいたら、こんなふうに……」
アルは少しだけ笑った。それから足を止め、アルはそっと池の水面をのぞき込んだ。
「……わたし、小さい頃、自由がなかったんです」
みゆはそっと横顔を見つめた。
「王室の人間として、自分で決めることが、ほとんどなかった」
「笑い方、座り方、ぜんぶ。自分で決められないこと、多いです」
淡々と語られる言葉の奥に、かすかな痛みがにじんでいた。
「本を読むことや音楽を聴くことも、誰かのゆるしが必要だった」
「……アニメは?」
アルは小さく笑った。
「内緒で観てました。ユーリという友人がこっそり、ディスクを持ってきてくれて。あれから、日本語も勉強しました」
「……へえ、日本語、ほんとうに上手です」
「ロゼみたいに話したくて、たくさん勉強しましたから」
みゆは、思わずくすっと笑った。
「……なんか、それ、ちょっと可愛いです」
「ありがとう。わたしも、そう思っていいですか?」
アルの声は冗談めいていたけれど、 その瞳は、遠い日々を見つめていた。
「でも……三話で、泣いてしまいました」
「三話……ああ、ロゼが初めてまっすぐに立つところ……」
「はい、そう。胸が、ぎゅっとしました」
アルは、空を見上げた。
「ロゼは、とても、わたしに似てると思いました。強く見えるけど、ほんとうは……ひとりで泣いている」
みゆは、静かにうなずいた。
「わたしも同じこと、思いました」
その瞬間、ふたりの間の空気が、ふわりとほどける。
お互いの中に、同じ感情が流れていることを、初めて言葉にできた気がした。
「日本に来る前……何度もロゼのセリフを、くり返して聞いてました」
「「私の光は、決して……消せない!」」
ふたりは同時に声にして、目を合わせて、笑った。それは初めて、心からの笑顔だった。
まるで、ロゼがふたりの背中をそっと押してくれたようだった。
「……わたしも、小さい頃から……ちょっとだけ、生きづらかったです」
アルは、黙ってうなずいた。
みゆの声の揺れだけを真っ直ぐ受け止めていた。
「中学校のとき、いじめられて……
話すのが苦手だったし、反応も遅くて、暗い子って思われてました」
アルは静かに、彼女の言葉に耳を澄ませていた。
「学校、行きたくない日がいっぱいで。
……でも、絵を描いてる時間だけは、希望が持てた」
みゆの手が、無意識に空中で何かをなぞるように動いた。
「……誰にも言ったこと、なかったけど」
「いま、言ってくれた」
アルの声は寄り添うようにやさしかった。
ふたりは互いの痛みに触れ合い、 しばらく何も言わずに風の音を聴いていた。
言葉にしたからこそ、心が近づいた気がした。
日が傾き始め、庭の木々が長い影を落とし始めた。池の水面がきらきらと揺れている。
アルがふと、小さく呟いた。
「……こうして話してると、 自分の気持ちが、やっと『自分のもの』になった気がします」
みゆは、まっすぐに彼を見つめた。
「わたしも……少しだけ、あのころの自分を、許せる気がしてます」
ふたりの視線が重なる。
「……みゆさん」
「はい」
「君は、光でした」
その言葉は、飾り気がなくて、まっすぐで。みゆの心臓は、どきりと弾んだ。
風が、アルの細い金髪をさらさらと揺らす。
「……そろそろ、戻りましょうか」
みゆは何も言わず、ただうなずいた。
それで、十分だった。
ラウンジへ戻る途中、ふたりはもう言葉を交わさなかった。
みゆは、もう一度、アルの瞳を見た。そこには、遠くて近い世界が映っている気がした。
そのうちに、アルの手が、そっと動いた。
テーブルの上で、彼の指先がゆっくりと、みゆのほうへ伸びてくる。
その仕草にみゆは少しだけ驚いて、そして——理解した。
ためらいながら、みゆも手を伸ばした。差し出されたその手を、そっと包むように握る。
握手だった。
あたたかくて、やわらかくて、だけどどこか、心細さもにじむような手。
「みゆさんの手……やさしいです」
少し不自然な日本語が、静けさのなかに溶けていった。
みゆは笑いかけそうになって、うつむいた。それでも、握っていた手は離さなかった。
「この握手……わたし、忘れられなくなると思います」
「……わたしも」
みゆの声はかすかだったが、届いた。
それ以上、言葉はなかった。窓の外では、風が通り、光がやわらかく揺れている。
ふたりの手は、テーブルの上で、静かに握られていた。
みゆの手は、まだ少しだけ震えていた。
「みゆさん」
アルの声は、風に混ざるようだった。
「わたし……こわかったです。あなたが、来ないままだったら、 ずっと、ひとりで思ってるだけだったら、どうしようって」
「会えないと言われたときも……」
みゆはハッと顔を上げた。
「嫌われたと、思いました。どんな言葉を返したらいいか、分からなかった」
「……ごめんなさい」
声は、かすれていた。
アルが、小さく息を吸い込むのが聞こえた。
「ほんとうに、あなたに出会って、よかった」
その一言が、空気を変えた。
そして、ひと呼吸おいて。
「……みゆさんは、わたしに、わたしを見せてくれました。自分でも、忘れていた、 『わたし』を。だから、あなたの前では……わたしも、うそがない、です」
みゆは、じっと彼を見つめた。
「……わたしも、あなたと話してるとき、
うそがないです」
それは、ふたりの間にだけ通じる言葉だった。沈黙は、もう言葉の代わりになっていた。
その沈黙が、ただやさしく流れていくことに、 ふたりは身を委ねていた。