第5話 会わなきゃ
テレビをつけるたびに、どこかで「あの人」の姿が流れていた。
歓迎式典。
経済会議。
小児病棟の慰問。
アルは、エルヴェーニュ王室の代表として、ひとつひとつの公務を丁寧にこなしていた。
スーツに身を包み、流暢な英語でスピーチをして、人々に笑顔を向ける姿は、まさに「王子」だった。
でも——その画面の中に、「アル」がいた。
静かに微笑む目。一歩引いた立ち姿。そして、誰かの話に深く耳を傾けるしぐさ。
「……言葉のとおりだ」
みゆは、テレビの前で小さくつぶやいた。
——わたしでいることが、つらい。
そう言った人が、こんなにも堂々と、公務をこなしている。
画面越しに見つめるたび、胸の奥にこみあげてくるものがあった。
「あのとき、会いたいって言えていたら——どうなってたんだろう」
想像が、胸の奥でふくらんでいく。
笑えなかったかもしれないけど、あの人は、静かに「こんにちは」と言ってくれた気がする。
きっと、すこしだけ話せた。きっと、また会いたくなった。
——もう一度、話したい。
たったそれだけの想いが、気づけばみゆの胸の真ん中に静かに根を張っていた。
「今じゃなくても、いつか……」
静かに、そうつぶやいたときだった。
テレビから、鋭いアナウンサーの声が飛び込んできた。
「速報です。エルヴェーニュ公国の王子に、卵が投げつけられました──」
その言葉が、部屋の空気を裂いた。
思わず立ち上がり、テレビに近づく。
指先が一瞬で冷たくなる。
画面の中、映像は揺れていた。
屋外の施設前。
黒塗りの車がゆっくりと止まり、ドアが開く。
数人の警護が動き、カメラが一斉に彼に向けられる。
そして──
降り立ったその瞬間だった。
「金持ちの外国人め!何しに来た!」
しわがれた男性の声。
あたりが一気にざわつく。
誰かの手が宙を切った。
白く光るものが投げられ、空を横切る。
ぐしゃり、と音がした気がした。
画面の中央、彼の肩に、卵が砕けた。
白身が弾け、スーツを汚す。
アルの表情は……変わらなかった。ひとつも歪まなかった。
まっすぐに前を向き、護衛に肩を押されるようにして、施設の中へと進んでいく。
みゆの中で、なにかがはじける音がした。
「アル……!」
思わず名前を呼んだその声は、ほとんど息だった。
(ひどい)
(アルは、ただ、王子として
職務を全うしていただけなのに)
(アルは、私の絵を褒めてくれるやさしい人で)
(私に断られたとしても、
きっと日本に来るのを……楽しみにしていた)
(こんなの……許せない)
こみあげる感情が止まらない。
“その場でのけが人はおらず——”
“容疑者の動機については現在——”
つきっぱなしのテレビの前、ぽつりと声がこぼれる。
「会わなきゃ……」
スマホに目をやる。最後に送ったメッセージ、最後に受け取った言葉。
みゆが描いた似顔絵、アルがくれた「ありがとう」。
すべてを走馬灯のように思い出していた。
みゆは、考えるより前にスマホを手に取った。その震える手に、かすかな熱が灯っていた。
自分でも驚くほどの衝動だった。でも、それはまっすぐなものだった。
アルが王子だって、関係なかった。
画面の中で卵をぶつけられていたその人が、あのやさしい言葉をくれたアルだったから。
みゆの中で、何かが決壊するように、言葉があふれた。
「わたし、会わなきゃ」
スマホを持つ手が汗ばむ。心臓が高鳴る。でも、もう迷いはなかった。
指先で、ひとことずつ、打ち込む。
「あなたに会いたい。会います」
送信を押す手が、少しだけ震えた。でも、迷いも、不安も、あの映像の中のアルの痛みの前では、何も意味を持たなかった。
会いたい。
今、あなたに。
メッセージを送ったあと、みゆは両手でスマホを握りしめていた。
あたまの中が真っ白で、けれど心のどこかは静かだった。
画面が震えたのは、それから二時間後だった。
アル。
指先が震えるのを抑えながら、通知を開く。
「……本当に、そう言ってくれるんですね。
わたしは、ずっと待っていました」
読み進めると、ふと一文が挿入されていた。
「あらためて、名乗らせてください。
わたしの名前は、アルバン・ド・エルヴェーニュ。エルヴェーニュ公国の第一王子です」
みゆの呼吸が、ひとつ止まった。
すでに、テレビの中で知っていた。でも今、こうして本人の言葉で打ち明けてくれたことが、 なによりも大切だった。
続くメッセージが届く。
「明日、最後の公務のあと、都内のホテルラウンジにてお待ちしています」
「エルヴェーニュ側で、静かにお話しできるように手配しました」
「もし、よければ——本当のお名前を、教えていただけますか?」
みゆは、小さく笑った。この人は、最後まで礼儀正しい。でも、そのやさしさは変わらなかった。
みゆは、静かに入力する。
「森田みゆ、です。
アルバンさん、わたしも——
明日、会いに行きます」
送信。
肩の力が抜けて、深く息をついた。
名前を伝えるだけで、こんなに体が熱くなるなんて。
でも、それはきっと、本当の自分で、あの人に会いたいと思ったからだった。