第4話 アルは、アル
「送信済み」の文字が既読になってから、アルの沈黙は続いた。
(やっぱり、がっかりされたのかな)
そんな言葉が、みゆの心の奥から静かに浮かんでくる。胸がきゅうっと痛んで、スマホをそっと伏せた。
目を閉じると、暗い天井の向こうに、アルの横顔が浮かんだ。彼がもう、何も返してこなかったらどうしよう。
そう思うと、呼吸が浅くなる。
(会いたかったよ)
(でも、どうしても怖かったの)
そう呟いても、誰にも届かない。それでも今は、目を閉じて、明日を迎えることだけを、ゆるやかに願った。
*
駅までの道を歩くのは、久しぶりだった。
薄曇りの空。風はまだ冷たくて、袖口を握る手が自然と強くなる。
リュックの中には、筆記用具と学生証、確認のプリント。今日は通信制高校の単位取得テストの日だった。
スマホの画面は、朝から何も変わっていない。アルのアイコンの横に、新しい通知はなかった。そのことには、もう少し慣れたつもりだった。でも、朝の光の中で画面を見つめると、どうしても胸がざわついた。
(まだ、返ってこないんだ)
(もう、二度と話せないかもしれない)
それだけの事実が、心に小さな穴を開ける。
会場は、合同で使われる市民センターの一室だった。並べられた机の前に、緊張した顔がぽつぽつと並ぶ。
同じ通信制に通う生徒たち。誰もが黙って席に着き、淡々とテストを待っていた。
みゆもその中の一人として、机に筆記用具を出す。
周囲をちらと見たとき、斜め前の席の女の子と、目が合った。彼女は驚くほど自然に、にこっと笑ってみせた。
みゆは、息を詰めるようにして、小さくうなずいた。それだけのやりとりなのに、なんだか、少しだけ、気が楽になった。
試験が始まる。鉛筆の音、ページをめくる音、咳払い。無音ではないけれど、静かな空間。
問題文を読みながらも、みゆの頭のどこかには、アルの名前が残っていた。
(ちゃんと、できるかな)
そんな自問が、いつもよりすこしだけ遠く感じられたのは、朝、あの女の子が向けてくれた笑顔のおかげかもしれなかった。
テストが終わると、教室の中に一斉にため息が広がった。張り詰めていた空気がふっと緩み、ペンを置く音、椅子が引かれる音が重なっていく。
みゆも鉛筆を置き、そっと背筋を伸ばす。
肩が軽くなったようで、でも頭はまだぼんやりしていた。
「おつかれさま」
声がした。
顔を上げると、隣の席の女の子が笑っていた。テスト前に目が合ったあの子だった。
「……あっ、うん。ありがとう」
みゆは小さな声で返した。その返事がきちんと届いたのか不安になって、視線を落としかけたとき、
「数学、むずかしすぎない? ラストの問題、完全に投げた!」
冗談めかしたその言い方に、思わずみゆはくすっと笑ってしまった。
「……わかる、わたしも、途中で諦めた……」
その瞬間、自分の口から自然と言葉が出ていたことに驚いた。
彼女はリュックをごそごそとあさりながら、キャンディをひとつ、みゆの前に差し出した。
「食べる? 頭、甘いもの欲しがってるでしょ」
「……ありがとう」
手の中に収まった飴玉は、ほんの少しだけあたたかかった。
「私、はるな。ねぇ、名前聞いてもいい?」
みゆは、一瞬迷ったあとで、頷いた。
「……みゆ。森田みゆ」
「そっか、よろしくね、みゆちゃん」
「ちゃん」付けで呼ばれたのも、久しぶりだった。
会場を出るころには、ふたりは自然に並んで歩いていた。
駅のホームで別れるとき、はるなが「またね」と手を振ってくれた。みゆも、小さく手を上げた。
(こんな私でも、話せた)
たったそれだけの出来事が、「全部だめな自分」を、ほんの少しだけ、ゆるしてくれた気がした。
それは、ほんとうに些細なできごと。
でも——みゆにとっては、世界がすこしだけ、やさしくなったようだった。
家に帰って、カバンからスケッチブックを取り出す。
アルを描いた横顔が、まだそのまま残っている。
「また、描けたらいいな……」
つぶやいた声は、誰にも聞こえないほど小さくて、でも自分にははっきり届いていた。
「……今日も、こないか」
声に出すと、それが「本当のこと」になる気がして、小さなため息と一緒に、スマホを裏返した。
立ち上がって、部屋の電気をつける。無音のままじゃ落ち着かなくて、テレビのリモコンを探す。
チャンネルを適当に選んでいたとき、画面に映ったあるニュースに手が止まった。
テレビの画面の中で、アナウンサーの声が重く響いた。
「エルヴェーニュ公国の第一王子、アルバン・ド・エルヴェーニュ氏──」
その名前が耳に届いたとき、みゆの思考は、ほんの一瞬、完全に停止した。
けれど、名前よりも早く反応したのは、目だった。
画面に映し出された青年。その姿が、みゆの視線を強く、鋭く引き寄せた。
空港の到着ロビー。
ひときわ高いカメラのフラッシュが交錯するなか、報道陣をかきわけて進むその青年は、驚くほど落ち着いていた。
まっすぐに前を向いて歩いてくる。
ひとり、群衆の中で浮かび上がるようなその存在感。
白に近い金髪。
肩口で風に揺れる柔らかな髪が、光を受けて淡くきらめく。そのすぐ下には、どこまでも静かな、深い海のような青い瞳。
鋭くも整った輪郭。
横顔のラインに、どこか憂いを感じさせる影が差していた。
──知ってる。みゆは、声もなく唇を動かした。
心臓が、ひとつ大きく打った。
「まさか……」
見覚えがある。
いや、ただ見たという記憶じゃない。
何度も何度も、視線を合わせた。
何時間も、線を重ねて描いた。
髪の流れも、顎の輪郭も、目元の傾きも──
──わたしが、描いた人だ。
指が震えた。
スマホが、膝の上から滑り落ちそうになる。
アル。
アルバン。
「嘘……でしょ」
声にならない声が、部屋の中に消えていく。
まるで自分の部屋だけが、世界から切り離されてしまったみたいだった。
テレビ画面の中では、アナウンサーが続けていた。
「エルヴェーニュ公国では、今週末から国際的な文化交流プログラムが予定されており、
第一王子の日本訪問はその一環とされています」
ときどき言葉を間違えるかわいさ。
ちょっと天然っぽくて、でもやさしくて。
何より、自分と似ている寂しさを、抱えていた。
その人が、王子──?
思い出す。
満員電車の話。
「アニメの演出だと思っていました」と笑ったメッセージ。
当たり前だ。
王子なら、電車なんて乗らない。
丁寧だけどぎこちない日本語。
石畳。ずれた金銭感覚。
あれも、これも。いまになって、すべてが線になってつながっていく。
思考がぐるぐると回る。
それでも視線は、画面から離れなかった。
その人が、立ち止まる。
記者の問いかけに一言だけ答え、カメラに軽く頭を下げた。
礼の仕方が、やけに丁寧だった。
その仕草すら、
アルの印象とぴたりと重なる気がして、胸が詰まった。
みゆは、膝の上でスマホを開いた。
アルとのやりとりを、ひとつずつ、指先でスクロールしていく。
「とても美しいロゼですね」
「あなたの言葉、とても嬉しかったです」
「わたしでいることが、つらいと感じることがあるのです」
気品。孤独。
距離を保とうとするくせに、どこか傷つきやすいやさしさ。
──全部、あのアルだった。
みゆは、両手で顔を覆った。
心の奥が、ひどくざわめいていた。
いつもと同じ部屋なのに、
世界がまるごと裏返ってしまったみたいだった。
「わたしが描いたあの人」が、この日本で、カメラのフラッシュにさらされている。
現実が、静かに、けれど劇的に、重なり合った。
みゆは、息をひとつ吸った。
王子——もしそうなら、なおさら。
「会わなくて、よかった」
口にした瞬間、胸の奥がぎゅうっと痛んだ。
届くはずのない人だった。アルが「あの人」だったのなら、最初から自分には手の届かない場所にいた。
「でも……」
アルはアルだった。王子だったとしても、あのやさしさも、弱さも、みゆが感じていた彼のすべても、何ひとつ嘘じゃなかった。
みゆは、机の上のスケッチブックをそっと開いた。
そこには、アルの横顔があった。
王子じゃない、「アル」というひとりの人の、静かなまなざし。表情は穏やかで、どこか寂しげで、でも、やさしい光をまとっていた。
この絵を描いたとき、自分はたしかに「アル」のことを思っていた。
王子でも、外国の人でもない、
名前も素性も知らない、けれど心を交わしてくれた、ひとりの人として。
部屋には、自分の呼吸だけが聞こえた。
「アルは、アルなんだよ……」
声に出したとき、ようやく胸の奥のざわつきが少しだけ静まった気がした。