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第4話 アルは、アル

「送信済み」の文字が既読になってから、アルの沈黙は続いた。


(やっぱり、がっかりされたのかな)


 そんな言葉が、みゆの心の奥から静かに浮かんでくる。胸がきゅうっと痛んで、スマホをそっと伏せた。


 目を閉じると、暗い天井の向こうに、アルの横顔が浮かんだ。彼がもう、何も返してこなかったらどうしよう。

 そう思うと、呼吸が浅くなる。


(会いたかったよ)

(でも、どうしても怖かったの)


 そう呟いても、誰にも届かない。それでも今は、目を閉じて、明日を迎えることだけを、ゆるやかに願った。



 駅までの道を歩くのは、久しぶりだった。


 薄曇りの空。風はまだ冷たくて、袖口を握る手が自然と強くなる。


  リュックの中には、筆記用具と学生証、確認のプリント。今日は通信制高校の単位取得テストの日だった。

 

 スマホの画面は、朝から何も変わっていない。アルのアイコンの横に、新しい通知はなかった。そのことには、もう少し慣れたつもりだった。でも、朝の光の中で画面を見つめると、どうしても胸がざわついた。


(まだ、返ってこないんだ)


(もう、二度と話せないかもしれない)


 それだけの事実が、心に小さな穴を開ける。


 会場は、合同で使われる市民センターの一室だった。並べられた机の前に、緊張した顔がぽつぽつと並ぶ。


 同じ通信制に通う生徒たち。誰もが黙って席に着き、淡々とテストを待っていた。


 みゆもその中の一人として、机に筆記用具を出す。

 周囲をちらと見たとき、斜め前の席の女の子と、目が合った。彼女は驚くほど自然に、にこっと笑ってみせた。


 みゆは、息を詰めるようにして、小さくうなずいた。それだけのやりとりなのに、なんだか、少しだけ、気が楽になった。



 試験が始まる。鉛筆の音、ページをめくる音、咳払い。無音ではないけれど、静かな空間。

 問題文を読みながらも、みゆの頭のどこかには、アルの名前が残っていた。


(ちゃんと、できるかな)


 そんな自問が、いつもよりすこしだけ遠く感じられたのは、朝、あの女の子が向けてくれた笑顔のおかげかもしれなかった。


 テストが終わると、教室の中に一斉にため息が広がった。張り詰めていた空気がふっと緩み、ペンを置く音、椅子が引かれる音が重なっていく。


 みゆも鉛筆を置き、そっと背筋を伸ばす。


 肩が軽くなったようで、でも頭はまだぼんやりしていた。


「おつかれさま」

 声がした。


 顔を上げると、隣の席の女の子が笑っていた。テスト前に目が合ったあの子だった。


「……あっ、うん。ありがとう」

 みゆは小さな声で返した。その返事がきちんと届いたのか不安になって、視線を落としかけたとき、


「数学、むずかしすぎない? ラストの問題、完全に投げた!」

 冗談めかしたその言い方に、思わずみゆはくすっと笑ってしまった。


「……わかる、わたしも、途中で諦めた……」

 その瞬間、自分の口から自然と言葉が出ていたことに驚いた。


 彼女はリュックをごそごそとあさりながら、キャンディをひとつ、みゆの前に差し出した。


「食べる? 頭、甘いもの欲しがってるでしょ」

「……ありがとう」

 手の中に収まった飴玉は、ほんの少しだけあたたかかった。


「私、はるな。ねぇ、名前聞いてもいい?」


 みゆは、一瞬迷ったあとで、頷いた。


「……みゆ。森田みゆ」

「そっか、よろしくね、みゆちゃん」

「ちゃん」付けで呼ばれたのも、久しぶりだった。


 会場を出るころには、ふたりは自然に並んで歩いていた。

 駅のホームで別れるとき、はるなが「またね」と手を振ってくれた。みゆも、小さく手を上げた。


 (こんな私でも、話せた)


 たったそれだけの出来事が、「全部だめな自分」を、ほんの少しだけ、ゆるしてくれた気がした。


 それは、ほんとうに些細なできごと。


 でも——みゆにとっては、世界がすこしだけ、やさしくなったようだった。


 家に帰って、カバンからスケッチブックを取り出す。

 アルを描いた横顔が、まだそのまま残っている。


「また、描けたらいいな……」


 つぶやいた声は、誰にも聞こえないほど小さくて、でも自分にははっきり届いていた。


「……今日も、こないか」

 声に出すと、それが「本当のこと」になる気がして、小さなため息と一緒に、スマホを裏返した。



 立ち上がって、部屋の電気をつける。無音のままじゃ落ち着かなくて、テレビのリモコンを探す。


 チャンネルを適当に選んでいたとき、画面に映ったあるニュースに手が止まった。



 テレビの画面の中で、アナウンサーの声が重く響いた。

「エルヴェーニュ公国の第一王子、アルバン・ド・エルヴェーニュ氏──」


 その名前が耳に届いたとき、みゆの思考は、ほんの一瞬、完全に停止した。


 けれど、名前よりも早く反応したのは、目だった。

 画面に映し出された青年。その姿が、みゆの視線を強く、鋭く引き寄せた。


 空港の到着ロビー。

 ひときわ高いカメラのフラッシュが交錯するなか、報道陣をかきわけて進むその青年は、驚くほど落ち着いていた。


 まっすぐに前を向いて歩いてくる。

 ひとり、群衆の中で浮かび上がるようなその存在感。


 白に近い金髪。

 肩口で風に揺れる柔らかな髪が、光を受けて淡くきらめく。そのすぐ下には、どこまでも静かな、深い海のような青い瞳。

 鋭くも整った輪郭。


  横顔のラインに、どこか憂いを感じさせる影が差していた。


 ──知ってる。みゆは、声もなく唇を動かした。


  心臓が、ひとつ大きく打った。

「まさか……」

 見覚えがある。


 いや、ただ見たという記憶じゃない。

 何度も何度も、視線を合わせた。


  何時間も、線を重ねて描いた。

  髪の流れも、顎の輪郭も、目元の傾きも──

 ──わたしが、描いた人だ。


 指が震えた。

 スマホが、膝の上から滑り落ちそうになる。


 アル。

 アルバン。


「嘘……でしょ」

 声にならない声が、部屋の中に消えていく。


 まるで自分の部屋だけが、世界から切り離されてしまったみたいだった。


 テレビ画面の中では、アナウンサーが続けていた。


「エルヴェーニュ公国では、今週末から国際的な文化交流プログラムが予定されており、

 第一王子の日本訪問はその一環とされています」


  ときどき言葉を間違えるかわいさ。

  ちょっと天然っぽくて、でもやさしくて。

  何より、自分と似ている寂しさを、抱えていた。


 その人が、王子──?


 思い出す。

 満員電車の話。


 「アニメの演出だと思っていました」と笑ったメッセージ。

 当たり前だ。

 王子なら、電車なんて乗らない。


 丁寧だけどぎこちない日本語。

 石畳。ずれた金銭感覚。


 あれも、これも。いまになって、すべてが線になってつながっていく。

 思考がぐるぐると回る。


 それでも視線は、画面から離れなかった。

 その人が、立ち止まる。


  記者の問いかけに一言だけ答え、カメラに軽く頭を下げた。

  礼の仕方が、やけに丁寧だった。


 その仕草すら、

 アルの印象とぴたりと重なる気がして、胸が詰まった。


 みゆは、膝の上でスマホを開いた。

 アルとのやりとりを、ひとつずつ、指先でスクロールしていく。


「とても美しいロゼですね」

「あなたの言葉、とても嬉しかったです」

「わたしでいることが、つらいと感じることがあるのです」


 気品。孤独。

 距離を保とうとするくせに、どこか傷つきやすいやさしさ。

 ──全部、あのアルだった。


 みゆは、両手で顔を覆った。

 心の奥が、ひどくざわめいていた。


  いつもと同じ部屋なのに、

  世界がまるごと裏返ってしまったみたいだった。


「わたしが描いたあの人」が、この日本で、カメラのフラッシュにさらされている。


 現実が、静かに、けれど劇的に、重なり合った。

 みゆは、息をひとつ吸った。


 王子——もしそうなら、なおさら。


「会わなくて、よかった」

 口にした瞬間、胸の奥がぎゅうっと痛んだ。


 届くはずのない人だった。アルが「あの人」だったのなら、最初から自分には手の届かない場所にいた。


「でも……」

 アルはアルだった。王子だったとしても、あのやさしさも、弱さも、みゆが感じていた彼のすべても、何ひとつ嘘じゃなかった。



 みゆは、机の上のスケッチブックをそっと開いた。

 そこには、アルの横顔があった。


  王子じゃない、「アル」というひとりの人の、静かなまなざし。表情は穏やかで、どこか寂しげで、でも、やさしい光をまとっていた。


 この絵を描いたとき、自分はたしかに「アル」のことを思っていた。


 王子でも、外国の人でもない、

 名前も素性も知らない、けれど心を交わしてくれた、ひとりの人として。


 部屋には、自分の呼吸だけが聞こえた。


「アルは、アルなんだよ……」


 声に出したとき、ようやく胸の奥のざわつきが少しだけ静まった気がした。

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