第3話 ごめんなさい
スマホの通知が鳴った瞬間、みゆは鉛筆を持ったまま手を止めた。
画面には「アル」の名前。
指先が、自然と画面をタップしていた。
新着メッセージは、短かった。
「来月、日本に行く予定があります。もしよければ……会えますか?」
文面を読み終える前に、胸がどくんと跳ねた。
それから時間が止まったように、周囲の音が遠のいた。
「……え?」
声が出たのか、思考の中でつぶやいたのか、自分でもわからなかった。
アルが——日本に? 会えるかもしれない?
現実味のない言葉たちが、画面の上で静かに瞬いていた。
最初にやってきたのは、緊張だった。手が冷たくなっていく。
まるで物語のページがめくれたような、突然の変化。
「会う」という現実。顔も声も知らないはずだった相手が、ほんとうに「会える」かもしれない距離にいるということ。
想像すらしていなかった。そう思った瞬間、自分の心が思いのほか大きく動いていることに気づいた。
——どうしよう。手のひらがじんわり汗ばんでいた。
アルは、どんなつもりでこれを書いたのだろう。
その答えを知りたくて、でも、知ってしまうのが怖くて、みゆはスマホをそっと伏せた。
返事ができないまま、時間が過ぎていった。
翌日の朝。
使い慣れたシャーペンの芯が切れて、あの水彩紙も、もう残りが少ないことに気づいた。
「……買いに行かなきゃ」
マスクをかけて、上着のフードを深くかぶる。
夕暮れの空は、くすんだ灰色だった。ふと、斜め前から近づいてくる二人組の高校生に目が留まる。
そのどちらかとすれ違った瞬間——一瞬で、みゆの心臓が締め付けられた。
記憶の底に沈んでいた名前が、急に浮かび上がる。中学のとき、「絵ばっかり描いてて、きもちわるい」と言った子だった。
「ほんと、しゃべんない子だよね」
「なに考えてんのかわかんな~い」
その声、その笑い方、その足音。すれ違っただけなのに、全部が記憶を引きずり起こしてくる。
「……っ」
顔を背けるようにして、足早に通り過ぎる。心臓が痛いほど鳴っているのに、なぜか息がうまくできなかった。
(気づかれてない……よね?)
でも、そんなの関係なかった。みゆの心の古傷が、ずきりと傷んだ。
「やっぱり、わたしなんか……」
帰り道の信号待ち。うつむいた視界の先に映る、自分のスニーカー。その靴先が、まるで「進むな」と言っているようだった。
(アルに、この自分を見せられるの……?)
内気で、臆病で、言いたいことを何も言えなくて。中学のときから、何も変わっていない気がしていた。
そのまま、画材店の前までたどり着いたとき、みゆは扉の前で、しばらく立ち尽くしていた。手を伸ばすことさえ、ためらうほどに。
みゆはその場で、スマホを取り出した。
画面が滲む。書きたいことはたくさんあるのに、うまく書けない。
何度か涙をぬぐって、一行だけ、打ち込んだ。
「ごめんなさい。会うことは、できません」
みゆは深く息を吸い込んで、震える指で、送信ボタンを押した。
画面に「送信済み」の表示が出たとき、胸の奥で何かがぽきんと折れる音がした気がした。
人知れず、声を出さないように泣いた。ほんとうは、会いたかった。
心から、会いたかった。でも、「いまのわたし」では無理だった。
──「あなたは、あなたでいいんですよ」
そう自分に言ってあげられたら、よかったのに。