第20話 あと三日
みゆはひとり、広場を離れた。
「……あのとき、わたしが叫んでも……聞こえなかった」
スピーチの終わり——確かに、アルは「みゆ」と言った。
名前を呼ばれたその瞬間、みゆの心臓は跳ね上がった。
でも、声は届かなかった。人波の中、みゆは彼の姿を遠くに見ただけ。
壇上にいた彼は、観衆を見つめながら、どこか遠くに目を向けていた。
手を伸ばすことも、声を交わすことも、できなかった。
あれが、最初で最後なのかもしれない。そう思うと、胸の奥が静かに沈んでいった。
ホテルの部屋に戻っても、心の中にぽっかり空いた空白は埋まらなかった。
どんなに思いを募らせても、もう連絡は取れない。
——会いたい。
たった一言、ありがとうを伝えたい。けれど、その方法が見つからない。
何もできないまま、ただ時間だけが過ぎていく。みゆはベッドの上に腰を下ろし、握ったスマホをそっと伏せた。
もう何度、画面を開いて閉じたかもわからなかった。通知も、連絡も、何も来ない。来るはずもない。
焦りが、喉の奥に張りついて、息苦しかった。せっかくここまで来たのに。あんなにもはっきり名前を呼ばれたのに。それなのに、なにもできないまま、ただ見上げていただけだった。
「アル……」
その名を呼ぶだけで、胸がきしむ。距離なんて、きっと関係ない。近くにいたはずなのに、声は届かなかった。
あの人に手を伸ばす方法が、どうしても見つからない。
——このまま終わってしまうの?
その思いが、じわじわと足元からにじんでくる。
やっと辿り着いたのに。何もせずに帰るなんて、そんなの、嫌だ。
みゆは立ち上がり、部屋の中を歩き出した。
理由もなくカーテンを開け、スーツケースのふたを開け、また閉じた。
何かを探すように、部屋の中を何度も行き来した。
時計の針は、容赦なく進んでいく。どこかで、何かを変えられるはずだ。
言葉ひとつ、誰かの手を借りることひとつ——でも、その糸口が、見えない。
焦る。
間に合わなくなる。
彼が、また遠くへ行ってしまう気がして。
みゆは深く息を吸って、
薄明かりのなかで目を閉じた。
遠くから見た、壇上のアルの背中が、
焼きついたように、まぶたの裏で光っていた。
ホテルの窓から見える空は、どこまでも青かった。
手を伸ばしても届かない、その空を見つめながら、みゆは小さく息を吐いた。
——あと、三日。
日本への帰国が迫るなか、アルからの連絡はなかった。
あの日、広場で名前を呼ばれてから、何日も経っていた。
もう一度だけでいい。言葉を交わしたい。目を見て、ただ「ありがとう」と伝えたい。
けれど、何も起こらないまま時間だけが過ぎていく。
いてもたってもいられず、みゆはコートに袖を通した。心の奥で何かが囁いていた。
——行かなきゃ。
このまま何もしなければ、絶対に後悔する。