第2話 わたしでいることがつらい
アルとのメッセージの往復が、気づけば2週間続いていた。
もう、それはみゆの生活の一部分と化していた。
ある日、絵を描いているとき、ふとスマホに手を伸ばす。
「今日は花を描いてました。沈丁花って、いい香りですよね」
指が止まる。——これって、なんか変じゃない?
でも、少しだけ話してみたい気もした。
「……えい」と小さくつぶやいて、タップする。
アルからの返信は、夜だった。
「沈丁花の香り、いいですね」
「そう思えることが、生きているということですね」
読んだ瞬間、みゆはスマホを胸に抱えて、そのまま仰向けになった。
「生きているということですね」
そんなふうに言葉を選ぶ人を、みゆは他に知らない。
——この人、どんな顔してるんだろう。
ふと、そう思った。
声も、年齢も知らない。
言葉の端々に感じる丁寧さ。古い言い回しのような表現。
写真も載せていないし、プロフィールには何も書かれていない。だけど、そこにいる。
どこかの街の、どこかの部屋で、同じ夜を過ごしている。
そう思うと、距離がほんの少しだけ縮まった気がした。
スマホの通知画面は、変わらないままだった。
既読も、返信も、どこにもなかった。最後のやりとりから、三日が過ぎていた。
机の上には描きかけのスケッチブック。でも、鉛筆を持ったまま、みゆの手は動かなかった。
「……もしかして、なにか怒らせた……?」
あの沈丁花の話題が、なにかまずかったのか。それとも、相手にとっては「ここまで」だったのか。
アルのことをよく知らないという事実が、こんなときだけ、みゆを不安にさせた。
——知らない人だったはずなのに。
ほんの数週間前までは、アルはただの通知のひとつだった。
だけど今では、彼の言葉を読まない日はどこか空っぽだった。
スマホを伏せ、みゆはベッドにうつぶせた。枕の奥に顔を埋めると、こめかみに鈍い脈打ちが残っている。
なんでもないことで、泣きそうになる。返信がこないというだけで、こんなにも感情が揺れてしまうことに、自分で驚いた。
四日目の朝。スマホに表示された通知を見て、みゆは思わず息を止めた。
アルからだった。
手がふるえそうになるのを、ぐっと押さえて開く。そこには、いつものやさしい文体。
けれど、その一文だけは、異質だった。
「返信が遅れてしまってごめんなさい。少し、うまく言えないことが続いていました」
「わたしは、わたしでいることが、つらいと感じることがあるのです」
目を滑らせていた文章が、その一文で止まった。
「わたしでいることが、つらい」
その一文が、画面の中央で静かに点滅していた。送信時間は、ほんの数分前。
でも、その短い一文の重さに、みゆはすぐには返信できなかった。
自分もそうだった──ふと、そんな言葉が心の奥から浮かんでくる。
誰かと話すこと。うまく笑うこと。外に出ること。どれも、ただ人並みにできればよかっただけなのに、その「人並み」がどうしても自分には遠かった。
学校の廊下。ざわざわとした昼休みの教室。透明人間のような日々。
「絵ばっか描いてて、きもちわるい」
あの声は、今でも耳に残っている。
机にノートを開いて、誰にも見せるつもりもなかったキャラクターを描いていただけだった。
それなのに、誰かが背後から覗き込んで、笑った。周りもつられるように笑っていた。
それからだった。みゆは「誰かに見られること」が怖くなった。
誰かと目が合うと、喉が詰まって、うまく言葉が出てこなくなる。
そんな自分自身が、嫌いだった。
だから、「わたしでいることが、つらい」──その言葉に、こんなにも胸が苦しくなるのだ。
画面の文字を、もう一度なぞる。
彼がほんとうに「生きている」からこそ、出てきた言葉だと思った。
——大丈夫だよ。そう言ってあげたくなった。
でも、「大丈夫」なんて言葉は、すぐに嘘っぽくなってしまう。
赤の他人が言っても、なんの助けにならないかもしれない。
持っていたスマホの画面が、暗くなる。
しかし、自分に言い聞かせるように、ゆっくりと指を動かす。
「わたしも、そう思ったことがあります。自分のままでいるのが、苦しくなるときがあって」
続けて送る。
「でも、いまのアルさんは素敵な人だと思います。あなたは、あなたでいいんですよ」
そう書いた瞬間、ほんの少しだけ、胸の奥があたたかくなった。
メッセージの最後に書いた言葉を、みゆはそっと指でなぞった。
あなたは、あなたでいいんですよ。
それは、自分に言い聞かせるようでもあった。
そうありたくて、でもなかなか信じきれない言葉。
だからこそ、同じように「わたしでいることが、つらい」とこぼしたアルにこそ、届けたかった。
あのとき、「とても美しいロゼですね」と言ってもらっただけで、ずっと塗りつぶされていた心に、光が差した。
だから今度は、自分の番だと思った。何かを返したい。できることなら——わたしにしかできない方法で。
視線が、机の隅のスケッチブックに向かう。表紙を開くと、ロゼの微笑みがそこにあった。
「……だったら」
思わずつぶやいた声が、部屋に小さく響いた。
その瞬間、決まった。
スマホを手に取り、みゆはメッセージを書いた。
「アルさん、もしよければ——あなたの似顔絵を描かせてもらえませんか?」
「どんな人なのか、まだ何も知らないけれど、わたしの絵で、『あなたがあなたでいい』って伝えたいんです」
ためらいも、緊張もあった。でもそれ以上に、伝えたい気持ちが勝っていた。
送信ボタンを押したあと、深呼吸をひとつ。
それから数時間後、通知が鳴った。
「……それは、よい提案だと思いました。正面は送ることが難しいので、横顔でもいいですか?」
写真が一枚、添付されていた。
みゆは、無意識に指先が緊張しているのを感じながら、ゆっくりとその写真を開いた。
画面が切り替わり、表示された一枚の画像。
思わず、息が止まった。
そこに写っていたのは、風に髪を揺らす青年の横顔だった。
淡い光をまとったプラチナブロンド。
深い海の底みたいなブルーの瞳。
シンプルな黒のハイネックで、その輪郭はまるで肖像画のよう。
後ろに広がるのは、古い石の壁。
その中で、彼の姿はまるで異国の物語から抜け出してきた登場人物のように、風景から浮かび上がるようにして、そこに在った。
みゆは、スマホを持つ指を少し強く握りしめた。なにか、見てはいけないものを見てしまったような──そんな罪悪感すら覚えた。
それほどまでに、その一枚の写真は「現実離れ」していた。
思わず、みゆは画面を指で拡大する。髪の流れ、服の生地の質感、背景の石のひび割れ──どこを見ても、リアルだった。フィクションではない。
この人は本当に、生きて、存在している。
心臓がどくんと大きく鳴る。
胸の内側に、見えない波紋が広がっていくような感覚。
(これが、アル)
みゆは、机の前に座ったまま、スマホの画面に表示された横顔をじっと見つめていた。
その姿に、思わず見惚れてしまいそうになる。
でも、今はそれよりも大事なことがあった。
「あなたは、あなたでいいんですよ」
そう伝えたくて、絵を描くと決めた。
みゆは、スケッチブックを開いた。
机に並べた鉛筆を1本ずつ試しながら、みゆはそっと息を吐く。
輪郭をなぞる線は、いつもより慎重だった。
光の差し方、髪の流れ、うつむいたまなざし。すべてが静かで、でも、奥に熱を秘めているようだった。
「この髪は……白に近い。でも、冷たい色じゃない」
ブロンドにも銀にも見えるその色は、やわらかくて、触れたらすっと手のひらに溶けてしまいそうな儚さがあった。
瞳は深い青。それもただの青じゃなくて、海みたいに静かで、奥底に何かを抱えている、そんな色。
描いているうちに、線と線のあいだに、自分の感情がすこしずつ滲んでいくのがわかった。
「……なんだろう、この感じ」
ただ絵を描いているだけなのに、胸の奥が少しざわつく。
でも、それは不快なものではなくて、誰かとちゃんと繋がっているような、あたたかい感触だった。
画面の向こうにいるその存在が、少しずつ、現実になっていく。
完成に近づいた似顔絵を見つめながら、みゆは自分の指先が、誰かをまっすぐに描こうとしていることに、気づいた。
それは、誰でもない「アル」という人だけを、きちんと見ようとする線だった。
みゆは、鉛筆を置いて深く息を吐く。
スケッチブックの中には、やさしい光をまとったアルの横顔が描かれていた。
「……届くかな」
つぶやいた声は小さかったけれど、その目は、いつもよりまっすぐだった。
みゆは、完成したスケッチをスマホで撮影した。少し斜めから光が当たるようにして、鉛筆の濃淡がやわらかく映るように工夫した。
写真を見直す。
そこには、静かな眼差しを湛えたアルの横顔がいた。輪郭も髪の流れも、現実そのものというより、みゆが「見た」アルの姿だった。その奥にある静けさや、孤独や、強さを思いながら描いた絵。
メッセージ欄を開いて、送信前に一度だけ深呼吸をした。
「描いてみました」
「あなたをそのまま受け止めたくて、描いた絵です。よかったら、見てください」
添付ボタンを押すと、写真が丸く読み込まれ、小さな画像と一緒にメッセージが送信された。
送った瞬間、胸がふっと軽くなる。それと同時に、どうしようもなく緊張してくる。
アルがどんなふうに受け取るか、まったく想像ができなかった。
スマホを伏せて、ベッドに倒れ込む。
時計の針が、やけに大きく音を立てていた。
数分か、それとももっと経った頃、通知が鳴った。
アルからだった。
「ほんとうに、描いてくれたんですね」
最初の一行が、画面の中心に浮かぶ。
みゆはスマホを両手で持ちなおし、胸の奥が静かにふるえるのを感じる。
「やさしい線で」
「ちょっと泣きそうになりました」
時間をかけて、届く言葉たち。
「こんなふうに、自分を見つめてもらえたのは、はじめてです」
その一文に、みゆの視界がかすかに滲む。
「……ありがとう」
それだけで、胸がいっぱいになった。
そのあとにこう続いた。
「わたしが、わたしでいてもいいって……」
「あなたの絵が、そう教えてくれた気がします」
みゆの手が震えた。
でも、不思議と怖くはなかった。スマホの画面越しに、確かに感じる誰かの体温。
この言葉たちは、どこかの遠い国からでも、まっすぐに心に届いていた。
(自分の絵が、誰かの心に触れた)
その事実が、これまででいちばんうれしかった。
絵を描くことで、自分が変わるなんて思っていなかった。ただ好きで、ただ苦しくて、それでも描いていた線。
けれど、いま。それが誰かを、ほんの少し救ったのだとしたら。
(この人に、また描いてあげたい)
ふいに胸の奥が、熱くなった。
それは、アニメのキャラクター・ロゼを描いていたときとはちがう。
作品の魅力でも、架空の憧れでもない。目の前にいる「ひとりの人間」のために、ただ線を引きたくなったのだ。
「この人が、好きかもしれない」
まだ言葉にはできなかった。
それでも心のどこかに、光が灯っていた。小さくて、でもあたたかい恋の気配だった。