第19話 自由継承の儀
セレモニー「自由継承の儀」当日。
空の青さが深く澄んでいて、それはまるで、決意そのもののようだった。
王宮前の広場には、何千という市民が集まっていた。
掲げられた国旗が、風に大きくたなびく。
胸に手を当てて立つ人々の顔には、期待とも不安ともつかない表情が浮かび、 その視線はすべて、壇上をまっすぐに見つめていた。
この日、この瞬間が、ただの儀式ではないことを、皆が知っていた。
街の鐘が、ゆっくりと、しかし確かに鳴り響いた。
——始まる。
みゆは、人波の中でひときわ高い位置にある石段のそばに立っていた。
ここなら、壇上が見える——そのわずかな希望だけを頼りに。
実際には、人の背にさえぎられ、壇上の様子はほとんど見えなかった。それでも、目を凝らし続けていた。
そして、次の瞬間。
風を切るように壇上へと一歩を踏み出したひとりの姿。
光をまとうような金色の髪。 整えられた礼装の襟。 背筋をまっすぐに伸ばした、迷いのない佇まい。
遠くても、すぐにわかった。
——アル。
その瞬間、胸の奥が一気に熱を帯びた。 喉の奥が詰まり、小さな声が自然に漏れる。
「アル……」
ほんとうに、いた。 ほんとうに、生きていたんだ。
何度も夢に見た。 あの筆跡、あの声、あの瞳の色。
今、彼は確かにそこにいる。
壇上に立ち、堂々と、国の未来を語ろうとしている。
マイクに立つ彼が、静かに口を開いた。
「Elyméra solénta viëra Elvénien, inavela drénor selnéa……」
(尊きエルヴェーニュの民よ、この誇り高き日に…)
——意味がわかる。
彼の母語だったはずのエルヴェーニュ語が、今はもう「音」ではなく「言葉」としてみゆに届いていた。
(聞き取れている……)
胸の奥が熱くなる。
彼の語る国への愛。
王座の重さ。
変わりゆく時代のなかで、守るべきものと向き合う誠実さ。
それから──ひとつ間を置いて、言った。
「Etravia sel thal」
(よって、わたしは辞退する。この王位を)
その瞬間、広場がざわついた。
みゆは、立ち尽くしたまま震える指を胸に添えた。この日、この場で、彼がこれほどの決断を下すとは——
「Vèral ilève na rilàn, no na véllien」
(わたしは「象徴」ではなく、一人の人間として生きたい)
その言葉が、風をすり抜けて、まっすぐ彼女の中に落ちてきた。
そして、スピーチの最後。
アルはわずかに視線を上げて言った。
「Nolivianne… Miyu.」
(わたしの光——みゆ)
広場の時間が、一瞬だけ止まった。
名前を、呼ばれた。
たったひとこと。 けれど、広場の空気が、一瞬で変わった。
(今、彼はわたしの名前を呼んだ?)
まるで、世界中でただ一人の名を呼ぶように。
——わたしの光、みゆ
目の前がぼやけ、景色がにじんだ。 涙が止まらなかった。
誰よりも遠くにいたはずの彼が、「ただのアル」として、みゆの名を呼んでくれた。声は、確かに届いていた。
「アル……!」
人の間をかき分けるようにして、みゆは前に出た。
「アル! わたし、ここにいるよ……!」
必死に叫んだ。
声は震えていた。
しかし、その声は、群衆の拍手と歓声にかき消されていった。
誰も、彼女の言葉に気づかなかった。
壇上の彼も、もう視線を前に戻していた。
でも、みゆの胸の中には、光が確かに灯っていた。
たとえ、声が届かなくても。——わたしは、ここにいる。
そして、きっと、彼も——すれ違う運命のなかで、ふたりの時間は、確かに重なっていた。