第13話 いつもあなたと
中庭のカエデが、ゆっくりと風に揺れていた。色づいた葉が一枚、静かに舞い落ちる。
石畳に触れた音はなかったが、その落ち方だけで、季節が変わったことを知らせていた。
アルは王宮のバルコニーから、遠くの丘を眺めていた。
「……この国を、愛しているんです」
小さな声が、唇からこぼれた。
「子どものころからずっと。……この風も、色も、人の声も」
収穫を知らせる鐘の音、街角の焼き栗のにおい、母の膝で聞いた物語——そのすべてが、この国の四季とともにあった。
「だから……決して、捨てたくはない」
しかし胸の奥が、きゅうっと締めつけられる。
「なのに、なぜでしょう。守ろうとすればするほど、この国に背を向けているような気がする」
会見のあと。財政改革を宣言し、王室支出の内訳を公表したとき——拍手とともに、目に見えない冷気が、王宮内に広がった。
何人かの王族は、沈黙を選んだ。
何人かは、遠巻きに笑った。
そして、何人かは、目を合わせなくなった。
「まるで、見えない網の中にいるようです。
言葉は交わされても、本音はひとつも残らない」
そう口にしたかったが、誰にも話すことはできなかった。
唯一、ユーリを除いては。
足音が近づく。それを聞いただけで、アルには誰かわかった。
「ずいぶんと、冷たい風の中にいるんだな」
「……ユーリ」
隣に並んだユーリ・フローレンツは、変わらない口調で言った。
「秋だね。……この国の秋が、俺は好きだ。静かで、どこか悲しげで。でも、それが美しくて」
「ユーリ。君は悲しげなのが……好きなのか?」
「いや。悲しみの中にある静けさが、真実を引き出してくれる気がするんだ」
アルは小さく、かすかな笑みを浮かべた。それは苦笑にも、諦めにも似ていた。
「この国を愛している。でも……いまのままでは、王宮の中でわたしは孤立していく。それでも、歩くしかないと思った。……もう、止まれなかった」
「……怖くはないのか?」
「怖い。夜になると、ひとりでいることが、はっきりと分かる。それでも……その先を見たいと思ってしまったんだ。みゆと過ごしたあの時間で」
ユーリは、しばらく沈黙したあと、静かに言った。
「アルバン王子が選んだ道が、いつか誰かの救いになるように。……俺は、そう願っている」
アルはそっと目を伏せた。
「ありがとう。君だけは、変わらずいてくれて……」
「ずっと友人だ。俺は」
その言葉に、肩の力が少しだけ抜けた。
ユーリが去ったあと、アルはしばらくその場を動かなかった。
秋の風が頬を撫で、衣擦れの音が聞こえる。
「……立派なスピーチだったな」
その声に、アルは振り返らなかった。
バルコニーの奥、石の柱の影に立っていたのは、弟——ラウル・ド・エルヴェーニュ第二王子。
「民のために立つ王子。絵になる。だが、兄さん。理想は、政治には向かない。わかっているだろう?」
「……わたしは、嘘がつけないだけだ」
「ひとりだけ潔白を表明して、何になる。ただの偽善者だ。父上も、もう何も言わなくなった。それが何を意味するか、考えるべきだ」
ラウルは、それだけを告げて背を向けた。彼のマントが風に揺れ、葉を巻き上げる。
去っていく弟の背中は、王族らしい誇りに満ちていた。しかしその余韻には、どこか空虚な音がついていた。
(わたしが敵に回しているのは、弟だけではないのかもしれない)
そう思いながらも、アルは目を伏せた。
——進むしかない。
そのまま、彼は書庫へと足を向ける。
誰も使っていない小部屋。秋の光が斜めに差し込むその場所に、ひとつの木箱がある。
蓋を開けると、淡い色の封筒が何通も重なっていた。
その中から、一通の便箋を抜き取る。秋の空の下で受け取った手紙。たどたどしい文字。それでも、一文字一文字に真剣さがにじんでいる。
指が止まる。
——「Nolivianne lar riell(いつもあなたと、ともにあります)」
「……みゆ」
声に出すと、彼女の名が、孤独な部屋にそっと満ちた。
アルは便箋を閉じ、机の上に置いた。
——たとえ、この国でひとりになったとしても。あなたの言葉がある限り、進める気がする。
バルコニーに戻ると、風がまた一枚、葉をさらっていった。その音が、彼の胸の決意と静かに重なった。